フランシス・フォード・コッポラと言えば誰しもが巨匠と敬う存在のはずなんですが、どうもいわゆるそこいらの巨匠とちょっと違う風味がこのお方にはあります。凄すぎるのか、お茶目なのか、アーティストだからか、そうじゃないからか、偉すぎるからか、その割に楽しそうだからか、それが何かはあまりコッポラ作品を多く観ていないのでわかりませんが、この「テトロ」はその答えの一端を感じさせてくれるでしょうか。
「テトロ」っていう映画ですが「過去を殺した男」なんていう邦題が付いています。この邦題のせいでだまされた。てっきり、過去にすんごいことがあったチンピラというかマフィア系というか闇というか、そういうバイオレンス側の人間を描いた映画かと思って見はじめたんですね。そう思わそうとして付けられた邦題と思いません?このタイトルとカバーアートを見れば誰だってそう思います。
ところがそうじゃないのです。マフィアもやくざもバイオレンスも無関係で、一言でいうと兄弟と家族の物語です。もう一言付け加えると芸術と文化の映画です。さらにもう一言付け加えると夢の街ブエノスアイレスのラテン・ビート映画です。もうちょっと付け足すと変な映画です。
先に結論を言っておきますけど、もしかしたら多くの観客には不評かもしれない。「なんだこりゃ」と思う人もいるかもしれない。でも私はおもしろかった。その面白さがどこにあるかというと、まず変なところです。そしてアルゼンチンを夢の国のように描いているところです。そして文化と芸術についての強い思いを感じるところです。さらに兄弟や家族の小さな話で「おまえら小さいなあ」と思ってしまうその小ささです。
フランシス・フォード・コッポラという人の特異性を強く感じました。達観したのか呆けたのかわからないような作品ですが、では一言二言で済ました点をちょっと紐解いてみます。
さて「テトロ」のテトロってのは人の名前です。ヴィンセント・ギャロが、過去を捨ててですね、ブエノスアイレスでテトロと名乗って生活してるんです。まさに過去を殺した男です。でもテトロに暗さはありません。ブエノスアイレスを気に入っていますし、彼女もいるしお友達もいるし仕事もしています。でもまあ一応過去を思いっきり引きずっています。うじうじうじ男君的に引きずっています。
彼が殺した過去とは何か。というようなミステリーは基本的に物語のベースではあります。ですがその過去はまあ言ってみれば普通のぼんぼんのお家の事情っていう過去で、やばい系の焦臭い事情ではありません。まあ若干は焦臭いところもあるかな。いやあんまりない。
テトロを訪ねて弟君がやってきます。年の離れた弟君はテトロ兄ちゃんが大好きで、とても影響を受けています。でも過去を捨てた兄ちゃんはせっかく訪ねてきた弟君にもちょっと冷たくて、友だちに弟君のことを「ともだち」と紹介したりします。そのくせ友だちとはぽんぽん抱き合って「やあ兄弟」なんて言うもんだから弟君はちょっと悲しい。「どうしてぼくのことは友だちって言うくせに友だちとは兄弟っていうのさ」みたいな愚痴も出ます。ちょっと面白くないので、兄ちゃんの隠している過去とやらを暴いてやる、って風に弟君はもぞもぞ動き出します。
この兄弟のお話がメインとなります。兄弟物語です。それなりに面白い展開ですよ。さすが巨匠です。バイオレンスとか焦臭いわけではないとばらしてしまいましたが、それをわかってたほうがドラマを楽しめていいかもしれないのです。
さて家族の次はブエノスアイレスです。アルゼンチンの魅力に取り憑かれたコッポラ監督です。
南米の国はある種のアーティストホイホイです。アーティスト系の人が、なんかもう滅茶苦茶気に入るのですね。私も惹かれます。日本では沖縄に惹かれる人と近いかな。
ずっとむかし、タクシーの運ちゃんが私の仕事帰りの状況を見て「にいちゃんも絵描きか。わしも絵描きや。メキシコに10年いたんやで。あの国はええぞ。壁画だらけで興奮するぞ。住みやすいし、ええやつばっかりや。にいちゃんも行け。日本なんかおらんと、すぐメキシコ行け。さっそく行け」
そういやまだ自我にも目覚めていない年の頃に叔父さん家で見たメキシコ壁画の画集との出会いが私の人生を決定づけたのを思い出し、それまで漠然と好きだった南米への憧れが運ちゃんの言葉で急浮上したものです。
で、南米と言えば古代文明と芸術と酒と煙草です。壁画にしろ文学にしろ、皆がぶっ飛ぶ凄い作品がいっぱいいます。そんでもって庶民レベルで芸術を愛好しています。
スポーツやおねえちゃんのミニスカートと同じくらい芸術が身近です。次はそういう話題です。なんかよく知りませんがとにかく南米は凄いです。
さてそのアルゼンチンはブエノスアイレスですが、テトロがいる世界はまさに芸術の世界です。街は文化と芸術で出来ておりまして、舞台芸術や文学が普通にもてはやされています。テトロの仕事も舞台の照明係です。
本当のブエノスアイレスがどうだか知りませんが、少なくとも「テトロ」におけるブエノスアイレスは庶民が芸術に親しみ、文芸評論家はもの凄い影響力を持っており、脚本家がスーパースターの世界であり、小説の授賞式が全国テレビ生中継される世界です。
さてお立ち会い。そんなわけで「テトロ」は「美藝公」です。文化レベルの高い理想の国の物語となっておるのですよ。
「美藝公」というのは筒井康隆氏の小説で、日本の映画業界のお話なのですがちょっと普通じゃありません。「美藝公」の日本は、戦後の復興を芸術、主に映画によって成し遂げた国という設定です。映画が日本の根幹であり全てでありますから、例えば新聞の一面には映画の記事が載ります。政治や商売人や金融屋の記事ではないのです。そして芸術も娯楽も映画中心です。映画業界の人間は日本のトップです。トップであるからして、とてつもない才能が集まりますし、才能だけでなく人間としても優れています。と、まあそういう小説なのですが、「テトロ」におけるブエノスアイレスはまさに「美藝公」の日本と同じような扱いであることがわかります。
ブエノスアイレスの文化レベルが高いのは事実としても、この映画で描かれた世界はやはり多少作られた世界であると思わないでおれません。終盤の授賞式の盛り上がりを見ればあきらかです。
コッポラ監督がそういった世界を描いた理由は何でしょう。ひとつはブエノスアイレスが気に入ってること、もうひとつは芸術家として自国への絶望や批判があるからとは思えませんか?
まあわかりません。実際のところは。
これまで「美藝公」は「文化的で知的で良い人たちばかり登場するお話」の代名詞としてよく使ってきましたが、世界設定が共通する物語に出会ったのは初めてのことです。
というわけでブエノスアイレスと芸術の件をまとめて書きました。もうひとつ残っています。変な部分であります。
何が変であるか、ちょっとわかりにくいかもしれませんがこの映画の変な部分その1は芸術の大きさについての変さです。
小さな舞台、大きな賞、小さな演劇、小さな人間関係、大きな人間、大きな扱い、小さな発表会・・・ころころと転がるように登場する大きいのか小さいのかぜんぜんわからない芸術の世界です。かなり変です。
この変さにとてもよく似た映画を知っています。ポール・バーホーベン監督の「ショーガール」です。
ショービジネスの裏側を描いた映画ですが、小さな世界で大袈裟に生きるダンサーたちのどろどろの世界を直球で描いた変な変な映画です。架空世界のような単なる小さい世界のような大きなものへの批判が隠ってそうな何もなさそうなパロディのようなそうでもなさそうな真面目なような不真面目なような、実に摩訶不思議な映画です。世間での評判は悪いですが私には強く印象に残り高評価でした。一体どう言っていいのかよくわからない広くて狭く小さくて大きい変な世界が何か少し「ショーガール」と似ているのです。
変なところその2は謎の設定です。ただでさえあれこれと詰め込んだ「テトロ」の中でひときわ不思議な展開を見せる設定が「まぶしいものを見つめると発狂する」というオカルト設定です。これ、案外気づきにくいかもしれませんがラストで効いてくるし、どうしてこんな設定を忍ばせたのか、常人には理解できませんが、その分、たまらなく変で面白いです。普通に感動的なシーンである場所で、いきなりこの設定に基づく行動を取るんですよ。考えられますか。
楳図かずお大先生の短編に「石ころを塀に乗せる癖がある女性」が出てくるのがあるんですが、あの漫画のオチの変さにもどことなく似ています。
と、そんな感じで「テトロ」の面白さを多方面にわたり科学的に分析してみましたが、科学を超えたコッポラ監督の真理には全く届きませんでした。
てなわけで「テトロ」の結論といたしましては、超素敵な女優マリベル・ヴェルドゥに尽きる、ということで。
あとこの映画のポスターというかチラシというかカバーアートというか、このサイトの http://www.pablodavila.com/ のhttp://www.pablodavila.com/trabajos/tetro,27845401をご覧くださいな。
ほらこっちのデザインでは弟君じゃなくてマリベルが出てきてますよ。
弟君には気の毒だけどマリベルの素敵さは半端じゃないですからね。こっちのほうがかっこいいですよね。
しかしコッポラは変ですから、マリベル・ヴェルドゥに似合わないレオタードとか着せたりして、あのシーンはいったいどういうつもりなんでしょう。
とことん謎の映画でした。
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