精神
「精神」(2008)は私個人にとっては映画人生に影響を与えた作品の中のひとつでした。
精神科医療に人道的な新しい道を開いた山本昌知医師が設立した「こらーる岡山」のドキュメンタリーです。
入院と薬漬けの従来の精神科医療からの方向転換に尽力してきた山本医師の功績を説明したりあえて讃える映画ではなく、医療行為の視点で患者の生態記録を残したわけでもありません。「精神」では純粋にこらーる岡山の人々とその対話を捉えました。
山本医師の診療は、その活動履歴からも明らかなように診療行為以前に患者を尊厳ある個人として認識し人間同士の対話が行われます。
「精神」の撮影も山本医師のこの姿勢と同じでした。想田和弘監督の「観察映画」という言葉を初めて聞いたときは、被写体に関与せず淡々と観察するという意味かなと思いましたが実際の観察映画は全然そういうんじゃなく寧ろ撮影者が積極的に被写体に関与し、信頼を得ていく上で言葉を引き出していることにすぐに気づきます。「精神」ではそれがものすごく顕著でした。
想田監督は過敏で緊張しているはずの患者さんたちの信頼を得ましたが、これって山本医師が患者たちに接するのと同じ姿勢を撮影者として取っていたことの証ではないでしょうか。ですので映画「精神」と山本医師のこらーる岡山の仕事ぶりというのは、医師 – 患者の関係と、撮影者 – 被写体の関係がまるっきり同じ関係、同じ位置にあるんですね。それが「精神」全部を包み込んでいました。それっていうのは言葉にするともちろん人道やら共生ということです。共生と迂闊に言うなかれ。これを実践するには強い意志と揺るがぬ徳、知性と教養が必要です。
精神0
「精神0」は山本医師が引退、こらーる岡山の閉院を受けて再び想田監督が積極観察すべく撮影に出向きます。
最初は山本医師をメインに撮影されていたようです。映画の序盤は患者との対話シーンです。医師を信頼している患者さんたちは寂しさや今後の不安を口にします。
一般の感動娯楽作品例えばETとか(例えが古っ)では出会いがあっていろいろあって最後お別れして客泣きますな。「精神0」では冒頭お別れのシーンですから「精神」を観た人はいきなりここでクライマックスのようにじわじわ泣きますな。患者さんの寂しさにつられます。ここで山本医師がいいます。
「お母さんもがんばった、お父さんもがんばった、でもあなたが一番がんばった。すごいですよ」ぼーっ泣きますな。
この言葉は患者へのべんちゃらでも何でもなくて、山本医師は講演シーンにて言葉として語っておられます。外科的不良が元で鬱状態になったときの苦しい体験です。人は「しっかり食べれば」とか「お散歩すれば」とか「規則正しく暮らしてみれば」と助言をするが、そんなことは判っている。それができないから苦しいんだ。と語られますね。そうだその通り!と心でかけ声をかけますな。そして「自分はほんの僅かの時期そのようになって苦しかったが、患者さんは何年も何年もこの苦しみと闘っている、にもかかわらず穏やかさを保っている」と患者への尊敬を語ります。
優しさとは何ですか。それは他人への想像力です。想像力は何ですか。それは知性と教養です。何のためにそれがありますか。社会動物として種の個体を守るためです。社会動物して種の個体を守るというのはどういう意味ですか。優しいという意味です。
山本医師の最後の仕事に密着する予定に見えた想田監督のカメラは、ご夫婦にお呼ばれするシーンを境に別の集中モードに入ります。それは寿司です。いや違った、山本昌知氏と奥さまです。
随所に「精神」の頃の映像を挟みつつ、山本昌知氏個人と妻芳子さんを映し出しますね。妻芳子さんの穏やかでピュアな表情たまりません。
十年はあっという間ですが確実に十年分経っています。山本昌知氏の息切れと同じようにはぁはぁ言いながら寿司食いたいな、じゃなかった、氏と同じように慈しみと尊敬を持ち続けることができることを己に願うことしかできません。
まああの、映画啓蒙Moviebooの筆者は性根が薄汚れた悪徳マンですから難しいんですが、この方のような態度で人生に対峙したいなと思う次第です。
取り急ぎざっとした感想文ってことで。何か言いたくなったら追記するかもしれません。仮設の映画館については複雑ですのでここでは取り上げませんでした。->仮設の映画館
こらーる岡山閉院後、山本医師の呼びかけで始まった愚痴庵というのあります。悩みを抱えた人たちのサロンの役割を果たしているそうで、多分まだ存続していると思います。閉院後、隠居して穏やかに過ごすだけかと思いきや、まだまだ患者さんやいろんな困った人たちのために尽力する山本医師です。どうですかこれ。尊敬。