ずっと待ちわびていたダルデンヌ兄弟の「Young Ahmed」は「その手に触れるまで」という邦題でもう公開されてるんですって。あららら。えっ。6月からやってたんですか。あららら。あららら。
「その手に触れるまで」京都シネマで終わってた 岡山でまだやってるな。刈谷は近日。どっちかに行きたいな。神戸でもやってますか。朝一ですか。無理やな。
と、ごちゃごちゃツイートしながらも無事に観れた「その手に触れるまで」はダルデンヌ兄弟の2019年新作、過激系の宗教宗派を盲信して道を踏み外す少年のお話です。
ダルデンヌ兄弟の映画は絶望があったり希望があったりとよくいわれますし自分もそのように感じて書いたこともありますが、それ以前にとても判りやすい作風という特徴もあります。映画で描かれることが全てで、描かないことを何か含ませたり解説が必要だったりということがほとんどありません。見ているとすべて見せてくれる感じといいますか、ストレートですよね。
「その手に触れるまで」もストレートにぶつけてくる映画でした。がっつんがっつん来ます。この映画について何か語り出すと、それって映画で表現していたことの再確認にしかならないという状況になります。即ちストーリーのネタバレに直結します。
中一か中二くらいの年齢と思われる少年が主人公で、全編この子が出まくります。アメッド君を見続ける映画です。ダルデンヌ兄弟の映画って演出きびしいらしいので、それに耐えうる実力を持った子ってことですよね
さて邦題についてですが、これは本編のネタバレです。ラストで手を握るまでの話ですからね。ドラマ系映画によくあるネタバレ邦題です。同時に、本日この記事もネタバレです。未見の方はそっと立ち去ることをおすすめします。
「その手に触れるまで」はひたすら少年を追って時間が進んでいくタイプの映画です。その間、観ているこちらは少年の心をいろいろ想像したり裏切られたりしながらドキドキ進行をしますので、ネタバレ食らうのは望ましくありません。
さて原題は「若いアメッド」ですが、邦題は「その手に触れるまで」という情緒的なものとなっております。映画序盤に、先生との握手を拒むアメッド君を描きますから、「ははーん。宗教にかぶれて頑固なアメッド君、だんだんと心がほぐれてきて最後は先生と手を握り合うんだろうなあ、はーと」などとストーリーを予感します。私個人はダルデンヌ兄弟の映画を信頼していますからそんな安直な話ではないだろうとは思うものの、邦題通り、最後に手を握るのは確かだろうなと知りつつ観ます。
ラストシーンはそのままずばり先生とアメッド君が手を握ります。邦題でネタバレしている通り、みんなの予想通りです。ただし、その過程が問題です。
「だんだんと心がほぐれてくるアメッド君」を想像するのは容易いですね。そして本編もそのミスリードに沿った展開となります。が、完全に罠です。
過激な宗教にかぶれるアメッド少年は一発で犯罪者となり少年院に行くことになります。そこでの更生プログラムや関わる人々や牛牛と触れあっていきますね。誰もがだんだんと更生していく少年のドラマを期待するわけですよ。普通の映画ならそうなります。いえ、普通の人ならこれで更生します。仔牛に指吸われて更生しない人などおりません。
しかしダルデンヌ兄弟はやらかします。アメッド君は一切更生しませんし心も揺るぎません。愛情あふれる母親、理解ある被害者、信頼してくれる教官、尊い農作業、指吸う仔牛、せまりくる美少女、つぎつぎに「更生ドラマ」のネタがアメッド君に襲いかかりますが、この馬鹿少年は一切更生しません。
厳しいリアリティはひとつには「一途な恐ろしさ」そして宗教に潜みます。
注意しておかないといけないのは、この映画ではイスラム教の批判を行っていない点です。イスラム教の問題を扱ってはいますが、イスラム教そのものを批判しません。具体的には、細かな宗派というんでしょうか、地域やネットに台頭する怪しげな「導師」の元、過激思想にハマっていくイスラム教内のカルト派や分断や内ゲバに関することを問題視しています。
「見えない太陽」の馬鹿孫も同じような過激系ミニ宗派にのめり込んで犯罪者になりますね。こうした問題があるらしいですね。
我々にはピンと来ませんが、ヨーロッパにおけるイスラム教の問題があって、それは一般的な貧困や悪政や資本主義による問題ではなく、もうちょっと異なる原因による分断だそうです。それはダルデンヌ兄弟によると力を失いつつあるからこそ起きる分断と内ゲバです。
宗教にかぎらず、弱体化した思想団体系で必ず起きることですよね。大きな視点あるいは大きな敵を見失い、細かい考えの違いをお仲間同士が攻撃し合う状況に陥ります。
左翼の内ゲバなんかが誰しも思い浮かべるかもしれません。岸信介や悪党の安保と戦っていたはずの左派グループがいつしか「真の敵は丸丸派である」「許しがたいのは革革派である」とかって喧嘩し始めます。
現代でも同じ事が繰り返されます。グローバル企業と緊縮が許せないと怒っていた右翼が同じ志の政党を「あいつらは毛沢東主義者だ」とかってわけのわからないことを言いながら敵意を剥き出しにします。馬鹿じゃなかろうかと思うのは冷静な他人で、思想・宗教ってのは凝り固まるとどんどん許容範囲が小さくなり豆粒ほどの違いを見つけて大げんかしたり仕舞いには殺し合ったりします。
このことが宗教や思想を元にした犯罪の根深い点でもあり、これにかぶれて凝り固まった犯罪者が更生できる可能性は見えないくらい小さいということです。
アメッド君がまさにその状態となります。アメッド君はイスラム教を元にする何やら過激団体にのめりこみ、白人の車に爆弾を仕掛けるのではなく、同胞に対して「裏切り者め」と内ゲバを発動するんですね。主人公が大人だったら「この狂信者どうにもならんわ」みたいな話になること必至。少年だからこそ、みんなは更生に期待します。ストーリーもそれを臭わせつつ進行し、そして裏切り続けます。
狂信化した人間が更生する機会があるとすれば、それは己の命の危機に直面したときだけかもしれません。
人の命を軽んじる犯罪者の特性として、想像力がありません。他人を想像する能力がないから簡単に殺そうとします。想像力がないというのはアホということで、例えばスガ何とかという総理大臣をやっているこの男は「日本では300万社ほど非効率で無駄な中小企業があるからこれを半分潰そう」という恐ろしい発言主を崇拝し実行しようとしている死に神です。人の営みに対する想像力の欠片もないことがうかがい知れます。おっと話を戻します。
で、自分が死に直面したときに初めて人の命を知ったりするわけですね。死神スガが死に直面したときに更生するかどうかは知ったことではありませんが、普通の犯罪者やましてや経験不足の少年であったなら尚更そういうことが起きます。
この映画では心変わりを少しずつ丁寧に描くような安っぽいことはしません。殺意むき出しの少年が身の危険を体験して初めて手を握れるようになります。「お前直前まで何をしようとしていた」と問い詰めたくなると同時に、動物としての人間を垣間見れて「それでええ。それでええんやで」と思えたりもします。ダルデンヌ兄弟の映画は容赦なく現実を突きつける攻撃性と、希望や優しさが同居しております。
心理療養士との会話をはじめ、興味深い言葉も多く紡がれます。なぜ被害者に会いたいのか聞かれ「自分のためにもなるから」と間抜けに答えるシーンとかいい感じです。犯罪者の独りよがりを上手にセリフにしたものですね。
少年がテロリストや兵士になる様は「ジョニー・マッド・ドッグ」をはじめいろいろ映画にもなっています。大半は治安が悪い途上国の話でした。しかし同じことが先進国であるヨーロッパの片隅で起きているというのが危険なことで、先進国が内包する大きな問題を炙り出します。
オマケで一言。この映画を観て感心したことのひとつは、少年院もそうなんですがイスラム教をちゃんと認めていて、尊重するシステムがちゃんとあることです。こういうのはさすが人権先進国だなあと思わずにおれません。