「サンセット」という新作の情報を得て、第一次大戦前のブダペストを舞台にした映画と知りました。高級帽子店で働きたい元経営者の娘の話で、兄の存在を知ることになり彼を探すというミステリー的なプロットの紹介がされており、ぶっ飛び多重構造で集中と考察必須の「サウルの息子」から一転、ヒットを機に比較的誰にも分かりやすい映画を作ったのかなとぼんやり考えておりました。そんなぼんやりしたお客を椅子ごとひっくり返す威力の「サンセット」を見終えて、私を含む映画部では阿鼻叫喚、「何だかもの凄いものを見たような気がするがこれはいったい何なのだ!教えて知恵袋!」とアホ丸出しになってのたくります。
何が「サウルの息子」から一転、ヒットを機に比較的誰にも分かりやすい映画を作ったのかな、だ、とんでもないことでして、むしろ「サウルの息子」からさらにパワーアップさせて観る者を混乱させます。胸騒ぎと辛さと歴史への予感に深く沈め呼吸を困難にさせる強烈なこの映画の正体はなにものか。考察ったって何から何を考察するんだ、この映画はいったい何を描いてるんだ、というか何がどうなってんだ、うおーっ、ということで取り乱したので少し落ち着きましょう。
イントロダクション
広報されているイントロダクションどおりに映画の序盤がまず進行します。
高級帽子店にいる一人の女性、主人公のイリスです。「この店で働きたいの」彼女はこの店の元経営者の娘です。幼い頃火事で両親も店も失った経歴がありまして、余所の帽子店で修行した後に生家でもあるこの店で働きたいと、そういうことのようです。でも断られます。現在の経営者は親切に今夜の寝床まで用意してくれますがイリスは帰る気などなくちょろちょろと嗅ぎ回ります。まず孤児となった自分を世話した施設にて確認しようとしたり、そのうちに兄の存在を知ることになります。兄はこの土地で有名、誰もが噂を知っています。伯爵を殺したという情報も得て「兄は実際に何をしたのか、今どこにいるのか、探そう、会おう」とイリスは俄探偵となりさらにちょろちょろと動き回ります。
このあたりまではわかりやすいストーリー進行にて、観る者は「そうかそういう話だな、兄はどこにいるんだろう、殺しの動機や実際の犯行はどうだったのだろう、イリスは兄に会えるのか、会ってどうするんだろう、そんで、生家である帽子店で上手く働けたりするんだろうか」と、ミステリー映画的に乗せられてごく当たり前の心構えにて先を楽しみにわくわくしたりします。ですが完全に罠に嵌められています。
罠です
はい。そんな甘ったれた映画ではまったくございませんで、この後、観る者は完全に罠に落ち手玉に取られることになります。
ここから先しばらくは観る者が想像した通りにイリスがうろちょろすることになるのですが、ふと気づくとこのウロチョロが異常なんです。今何を目指してウロチョロしてるのか、当面の目的は何なのか、まったく読めなくなってきます。読めそうで読めない、わかりそうでわからない状況に陥ります。さらに、ただウロチョロしてるだけのはずなのにいきなり核心みたいなところに出向くし、帽子店追い返されたはずなのにちゃっかり居座ってるし、もう何が何だかわからなくなってきます。しかもこのウロチョロが「サウルの息子」のあの舐め回し不確実撮影技法で来るわけですから不安と不穏に包まれる以外何もなくなります。
「サウルの息子」では息子を正式に埋葬するためにお坊さんをひたすら探しますが、まさにそれと同じ状態がイリスの兄捜しに当てはまります。しかし息子の埋葬そのものが怪しかったり、それどころか別のストーリーが影で進行していたりしましたね。「サンセット」で言うなら、兄を探しながら、兄捜しとは別の物語が進行している状況です。別の物語は「サウルの息子」ではゲリラの話でしたがこちら「サンセット」ではそれが複数同時にあります。ひとつは歴史です。オーストリア=ハンガリーの崩壊に繋がる戦争への予感ですね。そしてもうひとつはその歴史の中にあるイリスの兄の物語、そしてさらに肝心要の部分であるイリスその人、イリスの頭の中の物語です。これがぐちゃぐちゃに絡み合って蠢いているのに、画面に出てくるシーンはイリスがひたすらウロチョロするシーンで、そのシーンの唐突さ、すっ飛ばし方、核心への接近にいたるまで何の説明もありませんから映し出されるドラマにどう対応していいやら観ているこちらは混乱を極めます。
エンディングのシークエンスでは観るもの全員が椅子からずり落ちます。何ですのん?これ、何ですのん。
謎解きのヒント
この映画はパズルゲームではありませんから逐一謎解きをすることに意味はありません。主人公に密着して肩越しにピントが合わない世界を映し出すネメシュショットは単に特別な撮影技法というだけではなくリアルの不確実性も表現しています。一人の人間の主観で世界を見たとき、その世界のすべての秘密が情景から説明されることはありません。普通、映画では世界のすべてをお客さんに向けて説明したりしますがネメシュ・ラースロー監督はそういうことをしません。なので世界の秘密はわからなくて当然、整合性取れなくて当然なわけです。とは言え、あまりの難解さに「教えて知恵袋」と助けを求める人もいるかもしれません。説明しないのも世界が解明できないのもわかりますが、説明ないのも大概にせいやということで、まあ、そう思う人がいても当然です。私も助けを求めて映画部で長々と話合いました。
説明が極めて少なく全体像を把握するのに反芻が必要だった「ともしび」でさえ可愛く思える完全に答えがない挑戦的映画「サンセット」で夕暮れが迫ります。
言葉
ミステリー的展開、戦争へと向かう予感、ブダペストの没落、兄カルマンのストーリー、語られることがこれほど多いのに意味がちゃんと通じる会話が極めて少なくまったく要領を得ません。ひとつはこの意味あるのかないのかわからない少ない会話です。特にイリスに対して掛けられる言葉の信頼度は極めて低いです。
もうひとつ言葉について重要な演出がされています。それは多国語です。この土地ではいろんな国の人がいろんな国の言葉で喋っています。背景にすぎないような雑多な人たちの話し声はオーストリアやハンガリーやまったく字幕もつかない謎の言葉です。遠くにいる背景の人の言葉が増幅されたりパースペクティヴも混乱を極めます。パースペクティヴの混乱とはどういうことか。脳内に響く声は時に電波塔から発せられる指令であったり自分に関わろうとする見ず知らずの背景の人だったりするわけです。これはある病理のひとつの典型的な症状でもあります。
対応
イリスはウロチョロして常に核心近くにいます。そして周りの誰もが、イリスを重要人物として扱ったり重要人物だが重要人物でないように振る舞う対象として扱ったりします。秘密を打ち明け、謎の答えを語り、真実の姿を見せます。イリスは何者でしょうか。そうですね、彼女にとって彼女は重要人物です。彼女の頭の中にある世界では誰もが彼女の世界に相応しい対応をします。例えば、彼女が認めれば彼女の兄にだってなれます。
兄カルマン
兄カルマンの物語について想像できる範囲は極めて広いです。どう想像したって構わないし、何だったら「これがほんとの兄カルマンの物語だ」と自信たっぷりに語ることも出来るかと思います。少ないながら映画内の情報から空想すると、興味深い兄カルマンと妹イリスの物語が見えてきたりしますね。例えば新聞に載った拷問されて死んだ受刑者が本当のカルマンだと言うこともできそうです。そういう路線でこの映画を空想していくといろいろと面白いストーリーが隠さされていることにも気づくでしょう。でもね、そうして気づいた「真実のストーリー」ですが、少ない会話から証拠としてチョイスし採用しストーリーに気づくという行為そのものがつまりイリスのやっていることとまったく変わらないのだということにも同時に気づくでしょう。また、このような推理を成り立たせる部品はすべてが相互に矛盾していたり甚だ信頼の置けない断片だと誰にもわかります。
つまり余計なお世話ついでに言うとこの映画の中では兄カルマンについては何も描かれていないし、妹イリスにとって兄カルマンは歴史に関わる幾多の事象の象徴でもあるし、あるいはぶっちゃけイリス本人と言ってもいいわけです。探していた兄が自分自身であったとき歴史が動いたりします。
イリス
「サウルの息子」の主人公もそうでしたが、半ば一人称カメラみたいな舐め回しつけ回すネメシュショットの撮影技法によって観る者はイリスの主観と共に行動し考察します。目に映る人々や耳に入る言葉を客観的なものと思い込むことになりまして、ここから逃れるのは至難の業、でも時々主観カメラがすっとイリスから離れるときもあります。そんなときは一気に不安が押し寄せますね。この映画の主人公イリスは最も信頼できない語り手です。映画の後半、雑踏の中でイリスの脳内に響き渡る人々の話し声や楽器の音や雑踏の混濁した世界は注意していないと伝染する類いの病に直結します。
女性、ジェンダー、フェミニズム、狂気、青春
イリスは始終しかめっ面をしてたり無表情だったりします。イリスの目のやばさは映画の進行と共にこちらに不穏を伝えます。無表情のイリスが感情的に騒ぎ立てるシーンがわずかにあります。それは男どもに襲われるときです。「サンセット」の後半にはオーストリア貴族と帽子店の関わりにおいて、このテーマが浮上します。イリスの病理のうち重要な部分を占める女性に関する部分で、映画的にはジェンダーのテーマとも言えるし、主人公イリスに1910年代にはなかったであろう現代的思想の特徴を持たせたことにより「女性をテーマにした作品」ということを強く意識させてくれる部分でした。
またあるいはこれはフェミニズムの問題ではなく、ひとりの少女の成長の物語でもあるかもしれません。手に負えない国や歴史や政治や何かわからない謎のデカいものの存在を目の当たりにして怯えた女性の青春の物語であるとも言える…かもしれませんがどうすかね。
イリスは欲求にしたがってウロチョロし、数々の核心に触れます。その核心ひとつひとつは互いに矛盾したり関連性がなかったりあるいは全く別の関連を持っていたりするかもしれませんが、何せイリスの手に負えるものではないということはわかります。そのため、単純に「イリスが狂ってる」とだけ結論づけて終えてしまうのも危険です。狂っているのは確かでしょうが、そんなことすら映画の中ではひとつの断片にすぎないと思えます。この感じも「サウルの息子」と共通する部分ですね。イリスへの他者からの対応に関しては、ちょっとぜんぜん違う映画ですけど「バーバリアン怪奇映画特殊音響効果製作所」なんかを思い出すとちょっとしたヒントになるかもしれませんがあまり関係ないかもしれません。
「サンセット」についての他の軽い話題
狂気が伝染しそうなので大概にしておいて、ここからはぜんぜん別のお話をします。
映像・撮影
最初ネメシュ・ラースロー監督はタル・ベーラの関わりで紹介されましたね。それもそのはず、タル・ベーラの後を完全に継ぐ壮絶な演出、カメラワーク、映像を作る人であります。「サンセット」の驚異的な映像の数々、長回しも含めて、もう凄いの一言です。
人々
わけわからんながらも意外とドラマ部分が面白くて、人となりなんかも魅力的だったりします。筆頭に挙がるのがレイター帽子店の今のオーナー、ブリルさん。冷静で割と親切、大事な役でした。演じているのはヴラド・イヴァノフで、「4ヶ月、3週と2日」「私の、息子」「エリザのために」「ありがとう、トニ・エルドマン」など、めちゃめちゃよく見てる俳優さんでした。
そして注目、帽子店のゼルマです。この人可愛いの。ゼルマを演じたのはエヴェリン・ドボシュという女優で、その出演仕事のほとんどが短編やテレビ、残念ながら「サンセット」以外の長編映画は日本で紹介されていません。ですのでMoviebooで勝手にプッシュしときます。エヴェリン・ドボシュ
主人公イリスを演じたユリ・ヤカブは「サウルの息子」では主人公に大事なものを渡すエラの役で出演、主演は「サンセット」が初だそうです。
街角のセット
1910年代のブダペストの街並みですが、これ映画のためにセットを建設したのだそうです。そもそもこの監督はフィルム派の本物志向で、街のセットも必然として作ったのでしょうが、これはほんと今時たいへんなことだと思います。予算的にもね。
「サンセット」で建設された街角のセットですが、これもちろん映画の撮影が終わっても取り壊したりしませんよね?もったいないですよね?
そこでMovieBooの妄想としては、この1910年代のブダペストの街並みセットを、このまま残して観光名所にすることを提案します。
サンセット村
ハンガリーから世界に轟く映画を発信できたことは、アメリカやフランスみたいな映画大国とは違ってとても貴重で大きな出来事だと思うんです。きっと街のみなさんもネメシュ・ラースロー監督の偉業を讃えており、新聞テレビでは「世界で大注目!サンセットのスタッフインタビュー」とか「ネメシュ監督の好きなタイプは?」とかやってるかもしれません(やってへんやってへん)つまりブダペストの街では超難解な「サンセット」であってもお構いなしにスーパーメジャー作品であり、サンセット映画村には連日観光客が訪れてみんながハッピーになれるんです。これは日本における「羅生門」の扱いと同等と思えば理解しやすいでしょう。
帽子をかぶって撮影よ!
そこでまた妄想でひとつ提案するのは帽子店の再現および帽子を被って記念撮影するサンセット村のサービスです。撮影で使われたあの素敵な帽子を被って写真を撮れるなら行列も厭わないぜ。
サンセットタルト
ついでにお土産店ではサンセット饅頭・・・はないな、サンセットタルトやサンセットトゥーロー・ルディなんかいかがですか。
現代に警鐘、歴史は再発し、カナリアは泣きわめく
冗談はもういいとして、ここまで書いて監督のインタビューがあったのでそれ読んだので最後に監督の言葉を引用しておこうかと思います。
子供の頃、1914年生まれの祖母の話をよく聞いていました。彼女の人生は、世紀に渡り、全体主義体制、革命の失敗、戦争など、ヨーロッパ大陸の混乱にとらわれました。彼女こそ、ある意味ヨーロッパそのものなのです。私は今、1914年の第一次世界大戦が起きる前とそうは離れていない世界に生きていると信じています。我々にとって、過去の事は今の、また中央ヨーロッパの事なのです。