予告編見たときから俄然注目していました。が、天邪鬼ならではの不安も少しありました。公式サイトの作りが若干軽薄よりだったことやキャッチコピーが「テリー・ギリアム、ティム・バートン、ジャン=ピエール・ジュネを彷彿」とか勘弁してくれよ的なものだったためですが、しかしさすがに軽薄でアホな筆者でも長年の学習の末、邦題や配給の宣伝に惑わされてはいけないと覚えましたので大丈夫です。多分。でも最終日が他の映画を被さり、どっちかしか観に行けないときに少し影響してしまいます。悔し涙を飲んだ記憶もつい最近のこと、でもすぐにこうやって観ることが出来るのです。ありがたやありがたや。
つまらない前置きはいいとして、監督は映画の主人公もやっているアルベール・デュポンデルです。俳優さんですが、いやはや、素晴らしい監督の仕事を成し遂げました。主演しながらこの完成度。すごいです。
「天国でまた会おう」の魅力のうち、この主人公の味わいって大きいですよね。最初観たとき監督が主人公俳優とは知らなくて「この俳優をキャスティングしたことが勝因の一つ!」と思いましたが監督さんでもあったと知ってひゃーってなりました。キャラクター造型完璧。
くどくど言う前に結論言っときますけど、この映画は大変すばらしくて、ストーリーのプロットがまず良いですし、その上に細部の作り込みや練り込みや人の演技も良くて、それから撮影がまた凄くてドラマチックかつアーティスティックな構図と長回しの魔法のような映像が目白押しで、シーンごとの美術の仕事っぷりも芸術レベル、主人公始め役者も全員ぴったりフィットの填まり役で特に私が近頃最も気に入っている女優メラニー・ティエリーとか最高じゃん、っていう、そんな感じで結構ベタ褒め系です。普段の自分の好みと異なるのにベタ褒め系であるときはいろいろ語り倒したりしたくなるのですが、いつもの好み通りでそのままベタ褒め系であったとき、その映画を語ることが出来なくなります。「良かったよ」ですべて終わります。もう書くことなくなりました。
一応ストーリー紹介しておきます。脱力気味に一言でいえば「天国でまた会おう」は戦争の傷跡物語です。すべて戦争が元であり、最後まで最初の戦場シーンに端を発する出来事をベースに作られています。戦争によって人は翻弄されあるいは翻弄し因果は巡ります。
映画の最後は映画っぽく終わります。つまり、ものすごく映画っぽく終わるのです。何のこっちゃとお思いでしょうが、映画が映画のように、夢心地で終わるということです。まだいうか。原作とはこの最後を大きく変えたそうです。「天国でまた会おう」は、映画体験を擬似的に体験するかごとくに映画的なんですね。何かね、目頭が熱くなります。
ということであとは気に入ったシーンをあれこれ書きたくなりますが、サンドイッチマンのところとか小屋の二階に駆け上がる長回しとか主人公のとぼけた表情とか愛おしいすべてのシーンを紹介することはすっ飛ばして、戦争ということについて一言なんか書いておきます。我々日本人にとって8月は戦争月間ですからね。
この映画でも最初の戦場シーンにムカつく上官が出てきます。はっきり言って悪人ですね。この悪人が、戦争が終わってどうなるかというと商人になって成功して政治的な力もつけることになります。
戦争でも商売でも同じで、いい奴は悪い状況になり、悪い奴はいい状況になります。よく成功するには人を蹴散らし時に悪事を働かないといけないとまことしやかに語られます。コテンパンにやられ国民を大量に虐殺され敗戦した国であっても、その中で真の悪人が成功し出世し世を牛耳ります。そうですね、例えば岸信介とかいう極悪非道の悪人で戦後己の利益のために敵軍のスパイとして日本を売り渡したクズがおりまして、そんな奴が総理大臣までやって、それに留まらずそのクズを崇拝する孫までもが日本を取り壊し売り渡すクズとして権力のトップに居座り続けております。この理不尽の根っこはどこにあるんでしょう。商売ですか。戦争ですか。
戦争は商売の一種ですからその答えは同じものを指します。
ということでここで念のために表明しておきますが、いかなる戦争も否定します。特に現代において戦争とは非人間的な殺人公共事業にすぎません。平和ボケの情弱がいかなる屁理屈をこねて戦争を美化しようとそこに一切の理はありません。
さて「天国でまた会おう」では、悪人は最後には因果応報を食らいますし、善良な主人公は映画のような幕引きをします。悲劇の青年のことは心苦しいのですが、夢の物語として一方にある父と子のお話に決着をつけましたしお話としてはいいでしょう。そうなんです。つまり「天国でまた会おう」は嘘世界でしか味わえない夢の一時をもたらしてくれて、戦争が後々まで悪影響を及ぼす悪いことだと素直に感じさせてくれるとても映画らしい良い映画なわけなんです。