敗戦直後、収容所から生還する歌手ネリーは顔に深手を負っています。親友の弁護士レネの助けでベルリンに戻り顔面復元手術を受け当面の暮らしを確保します。レネは新しい国への移住を勧めますがネリーは「夫に会いたい。元の暮らしに戻りたい」とだけ願う純情乙女のような気持ちでいっぱいです。レネの冷静な忠告も聞かず夜な夜なピアニストである夫を探して出歩き、そしてキャバレー「フェニックス」で出会います。
夫は妻とは気づかずに「君は妻とよく似ている。死んだ妻の代わりに妻を演じてくれ。財産を山分けしよう」と提案。自分だと気づかずにいる夫に困惑しつつ、夫ジョニーのアパートで妻の物真似訓練をするのに付き合います。
「東ベルリンから来た女」のクリスティアン・ペッツォルト監督が再びニーナ・ホスとロナルト・ツェアフェルトを主演に迎え、同じプロデューサー、同じ撮影監督と共にユベール・モンテイエの名著「帰らざる肉体」を映画化したものです。
この映画について監督が語っているのは次のようなことです。
Filmkritik誌が、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』の特集をした際に、ハルン・ファロッキが、「入れ替わった女たち(Switched women)」という記事を書いていた。そのエッセーの中で、彼はユベール・モンティエの『帰らざる肉体(Le retour des cendres)』という小説を引き合いに出していた。この映画の原作となった本のことだ。その後、僕はハルン・ファロッキに会って、時間をかけてこの本について話し合った。この手のストーリー――いわば『めまい』と強制収容所の生還ストーリーをブレンドしたようなもの――は、フランスでしか語ることができないのか、そう僕たちは自問した。そしてドイツの戦後映画について考察した――
(略)
このストーリーを何とかしてドイツで語ることは可能なのか――もしできるとしたら、どうやって?と。
公式サイト インタビュー
ヘッドラインでも書きましたが先に結論を言うと「あの日のように抱きしめて」は素晴らしい出来映えです。変な邦題ですがそれでも尚いい映画です。観ているときも、驚愕のラストシークエンスを見終えた後も、あまりの出来の良さにしばし絶句。正直、ここまで凄い作品とは観る前は思っていませんでした。どういうところが良かったのでしょう。こういうところです。
ホロコースト
これまでホロコーストやホロコーストを引きずる映画をいくつも観てきましたが、敗戦直後に収容所から帰還する人がテーマの映画を知りません。収容所から奇跡的に生きて出られた人々が故郷に戻るというそのことについて、これまで深く考えたこともほとんどありませんでした。このテーマを目の当たりにして改めて気づかされます。ほんのちょっと前に激しい差別に見舞われ蔑まれ身を売られ、収容所で身も心もずたずたにされたあと普通にご近所さんのいる自宅に戻ってこれまで通りに過ごせますかと。
映画の中でも語られますが、収容所帰りだということは体つきや怪我でバレて差別的に見られると言うのです。一瞬「何を言ってるのだ」と思うのですがそれがリアルだとすぐに気づきます。
少し違いますが日本に置き換えると、戦時中に非国民とレッテルを貼られ町内で石を投げられたあげく特高に捕まって拷問され体が不自由になったあと自宅に戻ればどういうことになるかと想像すれば近いかもしれません。
日本に置き換えたついでにまた余計なこと書きますが、ナチスに学ぶ日本のナチス与党の動きがサルトルの嘔吐レベルのえぐいことにいよいよなっておりますね。近代文明の基礎を打ち砕き国家社会主義に突き進むこの国は、そうなる前に本来ドイツに学ばねばならぬ事が多すぎて、でもまったく学ばずにこのような惨状を迎えたわけです。政権党がナチスを真似るのは結構ですが、どうせならその滅びに至るまで忠実にナチスに学んでほしいと思いますし、できれば途中を飛ばして一足飛びにその崩壊を今すぐ真似てほしいと心底思っています。また良心ある一般人に出来ることはドイツが行ってきた戦争の総括そのものを真似ること、そのために知ることです。ドイツの映画には一部に脈々とそのヒントがあったりします。この映画も文脈としてそこから大きく外れません。時すでに遅しですがドイツ人が総括した戦後というものに時々は触れたほうがいいんです。というような話はそれはそれとして以下数十行削除してから続きいきます。
話戻って、ホロコーストの異常性を前提としている一般の現代人なら気づきにくいのですが、収容所から帰還した人が「身を隠す」とか「整形して顔を変える」とか「国外に逃げる」とか、そんな風に考える時代の狭間を示されて最初はとても困惑するんです。
「収容所帰り」というレッテルが存在する時期に収容所から戻る決断をする人を描くという、これ自体が特別なことに思えます。実際にこの時期に収容所から帰還する人々を扱った物語も少ないし、記録自体が少ないそうです。
ネリーを演じたニーナ・ホスも語っています。
キャラクターについて詳細なリサーチを行っている内に、あの時代の“その後”を当事者が語った記録がいかに稀少であるかに気がついたの。ネリーは強制収容所から出てくる。彼女は生き残って、救われたわ。まだそのトラウマの渦中にあるとき、それはどんな気持ちがするものなのか?それはいったいどんな状況なのか?自身の体験について口を開くことすらできないのでは?
公式サイト インタビュー
ネリーの無邪気と決断
主人公ネリーは歌手で裕福でした。そして収容所に入れられ人生がひっくり返り、顔を負傷して生還します。親友は顔を変えることや国外移住を勧めますがミュージシャンで無邪気なネリーは「元の顔がいい」「夫の元に帰りたい」と純情ピュアに思います。彼女はとんでもない目に遭って尚元の暮らしに戻りたい、戻れると思っている節があります。親友が「まるでわかっちゃいない」と呆れるほどです。
このネリーの純情が不憫で不憫で、映画内の随所にそれが現れていましてね、私はちっぽけなハートを鷲づかみにされました。
この映画では夫ジョニーが妻に気づかず「妻のふりをしてくれないか」と言う話なんですが、ネリーは困惑しつつそれに従います。夫を騙そうなんて思ってなくて、自分がネリーに近づくことで夫が気づいてくれるはずだと信じてるんですね。すごくそれに期待してるんですよ。赤い服着て「ほら」ってところとか、公園のベンチとか、その都度ネリーはわくわくして夫を見るんです。もう可哀想で不憫でたまらないです。
「顔が少々違っても気づかないはずないだろ」なんて思う人がいるかもしれません。それは見方が大いに不足していますよ。収容所でどんな目に遭わされたかを舐めています。ネリーを見て夫は言いますね。「似てるけど全然違う、妻はそんな歩き方じゃないし」まともに歩けてないんですって。身のこなしもまったく変わってしまってるんです。「スカートの丈が違う」服のサイズが合わなくなるくらい体型が変化する目に遭ってるんです。しかも夫は妻が死んだことに疑いすら持っていませんから、妻と気づかないことを馬鹿馬鹿しいとは思えません。
ニーナ・ホス
ネリーを演じきったニーナ・ホスの凄さですよ。改めてこの女優さんの力を思い知りました。さっきの引用でも分かるとおり、この方はネリーという人物像をとても掘り下げています。とことん掘り下げています。でないとあんな表情や演技ができるわけがありません。
あらゆる局面でニーナ・ホスの演技が光ります。最後の最後、ラストシークエンスに至っては映画史上に残されていいんじゃないかというレベル。
エンディングについて監督にこういうことを言わしめています。
問題は映画の結末をどうするかだった。映画を終わらせる唯一の方法は、ネリーが決断を下すことだ――でもその決断は、ストーリーに結論をもたらさない。すべてが未解決のまま、我々は問いと共に後に残されるんだ。ネリーに気づかない唯一の人物がジョニーだ。それからネリー自身。彼女は何かを失ってしまったし、彼は何かを裏切ってしまった。編集をしている間、僕はこのシーンには古典的恋愛悲劇のあらゆる要素が含まれていると思った。自殺、情愛の殺人、和解……しかしネリーは違う決断を下す。全く彼女自身の発案であり、我々の予期せぬものだ。それは脚本には明示されていないものだった。いや、されていたのかもしれない。いずれにせよ、撮ってみて初めて、本当に理解できたんだよ。公式サイト インタビュー
脚本にどう書いてあったか知るよしもありませんが、ニーナ・ホスは監督にこんなことを言わせるほどの演技を行ったんですね。撮影スタッフたちが現場で凍り付いたんじゃないかと思えるこの演技を是非多くの人に味わってほしいと思いました。
ロナルト・ツェアフェルト
夫ジョニーを演じたロナルト・ツェアフェルトの優しそうな弱そうなそんでもってずるそうなこういう顔がとても効果を上げています。何ともほんとのところがよくわからない風貌です。
この夫も複雑な役です。
妻を妻だと気づかない見る目のなさもありますが、随所で気づいてしまいそうになります。そういうときジョニーは慌てて自分を否定しますね。「僕まで騙そうというのか!」のセリフのところなんて、このセリフそのものも素晴らしいし、あたふたした感じを上手く表現していました。
この役者さんがどういう人かは知りませんが、公式サイトの三人のインタビューでは唯一たいしたことを言っていない人で、見た目どおりの暢気さんなのかもしれませんが勝手にそんな失礼なことを思ってもいけません。
ジョニーという男についても想像を膨らませることができますね。酷い男であります。ありますが、彼は一方では妻の買い物メモなんかを大事に持っています。戦争とナチを思うとき、弱い男がどうなってしまうのかということに思いを馳せることも出来ましょう。世の流れに逆らえない所謂空気を読む人・服従する人・従う人たちにとってはこの夫のほうが感情移入の対象になり得るんでしょうかどうでしょうか。しかし最後に判明するあれだけは擁護のしようがありません。そこまでか。お前、そこまでかと。
ここでまた妻ネリーの不憫に身もだえすることになるのであります。
他の人々・脚本
親友レネ、それからメイドのおばさんが登場します。レネの苦悩についてくどくどした脚本はありません。表現も最小限です。でもそれはあります。ネリーのために尽力しますし忠告しますし助言もします。しかし命令や指図はしません。最後はメイドに推薦状もちゃんと書きます。本編で語られない彼女の苦悩というものを想像できますし人柄も垣間見れます。
メイドのおばさんが登場します。この人の人となりも短時間で表現しつくしています。最初はぶっきらぼうなちょっと怖い感じで登場、網戸を手伝おうとすると「私がやりますから」と手伝いを受け付けません。材料が乏しい料理についてこぼします。次の登場ではコートを汚したことにプンプンしています。次の登場では「レネさんのことを知らないのですか」と憤ったような呆れたような物言いの中に強烈な悲哀をふくませます。ほんのわずかなセリフと短い登場シーンでこれほど人間を描けるんです。
なんという研ぎ澄まされた脚本でしょうか。
こういう優れた脚本にしばしば触れます。脚本だけでなくもちろん演出や演技とセットだからこそ成り立つわけですが、とてもレベルが高くて魔法を見ているようなんですね。映画を観る喜びのひとつです。良く出来た映画ってほんとに短い時間に驚くほど多くを表現します。
それに引き替え、だらだらくどくどした映画感想文のなんとだらしがないことでしょう。
映像
映像なんですよ、映像。これがとことん美しいです。「東ベルリンから来た女」と同じハンス・フロムが撮影監督ですが、前作を上回るカメラワークがとことん堪能できます。
壁を背にする人物と影、風景、人物の重なり、すべてのシーンが古典的とも言えるカットに収まり、カッコ良くて美しい、どこを取っても額縁に入れておけるレベルです。
戦後すぐの時代設定も効いていて、こればっかりは仕方ないんですがあの頃のファッションや化粧の美しさも格別です。とても絵になりますし相乗効果ですね。
音楽
クルト・ワイルの「Speak Low」で始まり、終わります。映画内では珍しいクルト・ワイル本人が歌っているバージョンであるらしいレコードもかかります。クルト・ワイルもナチスに追われアメリカに亡命した身であり、死ぬまでドイツ語の使用を拒否し、旧友にも英語を強要したそうな。ところでクルト・ワイルは死亡時49歳だったらしく、あひゃ。自分が如何に無駄に長生きしているか思い知らされますね。
クリスティアン・ペッツォルト監督
「東ベルリンから来た女」のときもこの監督が気になって過去作品ないかと漁ったら日本で紹介されておらず、良い機会だから過去作品もリリースしてほしいと思ってたんですがされずじまいでした。「東ベルリン」のときはただ単にポスター写真に惹かれて観たんですが、今作も一見するとメロドラマみたいですがよく見るととってもいい写真のポスターアートでありまして、そして過去作品も洒落た美しいポスターアートが特徴的です。過去作品も観てみたいものです。
というわけで「あの日のように抱きしめて」絶賛でした。国内では2015年の夏から秋にかけて公開していました。2016年2月にDVDリリースされています。これはぜひ。特に女性にぜひ。女性の心がわかる親父乙女の方もぜひどうぞ。
[追記] 良い公式サイトでしたが消滅していました。消滅だけならまだしも、悪質なサイトになっていました。気づいたのでリンク消しました。