ファティ・アキンはかつて「愛・死・悪の三部作」の構想をぶち上げていました。「愛より強く」が愛を、「そして、私たちは愛に帰る」が死を、そしてその後はいろんな違う映画を作ったりしていました。私は三部作がどうなったのか知らぬままこの監督のファンでおりましたが「ほら、三部作とか、作る前からあまりぶち上げないほうがいいよ」と内心思ってました。例えば、ラース・フォン・トリアーは「アメリカ三部作」を頓挫しておりますし。
でも実はファティ・アキン監督、長い年月をかけて準備してそして作り上げてしまったというのがこの「消えた声が、その名を呼ぶ」ということで、これが「悪」に該当する三部作完結編。これは失礼しました。お見それしました。よくぞ作りました。
「消えた声が、その名を呼ぶ」というこの説明的なタイトル、三部作全部に共通して言える変な邦題で、悪くないけど人を選ぶ奇妙な言葉です。少なくとも私に対しては訴求力マイナスで「愛より強く」も「そして、私たちは愛に帰る」も、邦題の悪さで長く存在そのものを無視していて、知ったのは随分あとのことでした。
「消えた声が」は、映画中でも最後にドドーンと出てくる「The Cut」という切れの良いカッコいい言葉がタイトルです。複合的な意味での「Cut」で、単純なこの言葉に深ーい意味と気合いが込められていると感じました。
さてアルメニア人虐殺についてです。世間知らずで何も知らない私はオスマン・トルコ(オスマン帝国)によるアルメニア人虐殺については何も知りませんでした。
100万人規模の虐殺が行われたと言われている事件で、アルメニア政府とトルコ政府の見解が今でも一致していないらしい、タブーのような事件だったそうです。
アルメニア共和国政府は1915年のこの事件について、180万人の人口のうち150万人が犠牲となったと主張、トルコ政府は「戦時の不幸」にすぎず、ジェノサイドではないと主張しています。先進諸外国21カ国はジェノサイドであると認定しているそうです。
ふと南京事件や性奴隷の問題を思い浮かべたりしますが、ちょっと似通ったところがある事件なのかもしれません。加害者のほうはしらばっくれて、あわよくばなかったことにしてしまいたいという思惑が働きます。被害者は事を大きく見せたい心理が働くのかもしれませんが、被害者に対して「大袈裟に言うな」みたいな劣悪非道の悪魔の言葉を吐きたくないので、ここはそっと口をつぐみます。
ファティ・アキンがこの事件を描くということ自体がひとつの大きな試みであったと我々は理解しておかねばなりません。
公式サイトのインタビューで、アルメニア人のジェノサイドを描いたことについてファティ・アキン監督が語っていますので引用します。
そうそう、以前はよく「公式読んでください」みたいな書き方してたんですが、映画の公式サイトってすぐに閉鎖されますんでね、閉鎖されてなくなるだけならまだしも変な怪しいサイトに変わってたりするので、気になったら引用しておくほうがいいなと思って。
[追記] 公式URL、よく見たらbitters.co.jp以下のディレクトリでした。このURLだと簡単に消されませんね。長く残してくれるだろうと思います。すぐ消えるのはオリジナルドメイン取ったやつですね。
両親がトルコ人なので興味を持ち、タブーであるという事実により興味を覚えました。どんな話題であろうとも、禁じられていると気になって、もっと知りたくなります。まだ対処されていない、折り合いがついていないことがたくさん存在するのに気づきました。もし、全国民が歴史家や政治家によって騙され、何世代にもわたり「そんなことは起こらなかった」と嘘をつかれていたら、国民はその事件を胸の内に閉じ込めるだけになります。それが、多くのトルコ人に起きていることです。数年前のイスタンブールでジェノサイドについてパブで話をすれば、隣の席の人に絡まれて「なに言ってんだよ?」なんて言われたでしょうけど、今では声を潜ませなくても話すことができるようになりました。
とはいえ、この映画はジェノサイドを告発するための映画ではありませんし、ましてや政治的な主義主張を剥き出しにする攻撃的な映画でもありません。それはちゃんと言っとかないといけません。
移民と移住についての物語です。物語の背景にはこのジェノサイドがありますが、ジェノサイドについての物語ではありません。私は政治家ではないので、映画で政治的なメッセージを発したいわけではありません。
〜〜(略)〜〜
『消えた声が、その名を呼ぶ』では、善と悪との境界線はつねに明解ではありません。たとえば、アルメニア人の主人公ナザレットは被害者から加害者になります。彼は、トルコ人の思いやりと慈悲のみによって生き延びるのです。インタビュー |公式サイト
ファティ・アキン監督の構想は最初はもっと盛りだくさんでエピソードも多くあったそうです。映画化を現実的なものにするために高名な映画監督たちにあれこれ相談、マーティン・スコセッシ作品の脚本を担当したマルディク・マーティンに引き合わせて貰い、脚本を手直し、ごっそりそぎ落として最終的な形にできたとのこと。
「攻撃的な映画ではない」と書きましたが、ファティ・アキン監督自身が「この映画をアメリカ的な脚本に直してほしいと思っていました」と語っています。なんということでしょう。これはより多くのお客さんに見てもらえるように、アメリカ的なわかりやすいお話にする必要があると監督が狙っていたということです。
ちょいとそこの映画マニアの皆さん、この言葉をしかと胸に刻みましょう。「前半良かったけど後半がだらだらして拍子抜け、最後は普通の感動でなんだかなー」とか、そんなこと思ってはいけないんですよ。駄目です。そういうマニア目線はいりません。はい。すいません。ごめんなさい。
このマルディク・マーティンもアルメニア人ということで、アルメニア人の生存者がアメリカに渡るところまでを描いた本作に、助言や手直し以上の力添えをしたそうです。この方のメッセージも公式サイトにあります。
アルメニア人ジェノサイドの生存者の物語は、取扱いに注意が必要なテーマだ。 それに取り組める勇気のある人はいないと思っていた。 ファティにはその勇気があり、私の夢を叶えただけでなく、彼はもっと遠くへと行ったのだった。
インタビュー |公式サイト
という、このような映画の背景がありました。
映画の中の年月と同じくらいの年月をかけて作り上げたファティ・アキン渾身の作です。
ここからはど素人の観客のただの感想ですが。
映画前半のアルメニア人虐殺事件からしばらく、戦争が終わるまでの期間あたりまでの出来映えたるや壮絶のひとことです。さっきちょろりと漏らしましたが、前半の威力が強すぎてですね、旅するお父ちゃんのお話になってからは身が入らないくらいでした。これをもって「後半ちょっとなあ」と思ってしまったのは正直なところですがそうではなく、前半が凄すぎたんです。ここはちゃんと自覚しておきたいところです。
前半の凄まじさは兵役という名の奴隷労働させられてから声が出なくなる事件あたりでまず一つです。まあ皆さん、これはのけぞりますよ。
この映画は「悪」についてのテーマを内包していて、どっちが悪でどっちが善などという単純な図式を意図的に外しています。喉を搔き切る男の辛さも存分に表現、脱走兵と出会い別れるまで、まあすごく濃密、たまらなく胸かきむしられる展開です。ここでまずむせび泣いても当然のことですよ。
いろいろあって石鹸工場の主と出会い、次の幕みたいな展開となります。この工場主や息子たちのいい人ぶり。博愛こそ人類を救います。博愛は知性と想像力で出来ています。
石鹸工場の最後のほうでは、時代も変わってきて主人公父ちゃんが活動写真を観ますね。チャップリンが流れています。このシーンですよ。これ。ここね、はっきりいって涙腺大決壊です。ひとつには映画の力というものをまざまざと見せつけられます。一瞬の安らぎもなかった父ちゃんの心の決壊でもあります。この活動写真を観るシーンは歴史に刻んでおく名シーンだと思います。
活動写真が終わった直後、ダブルパンチである人との出会いがあり、その後、父ちゃんは世界を旅することになります。石鹸工場主から餞別を貰い、最後まで世話になりっぱなしで門を後にします。
ひとつの大きな転換であり、前半の終わりです。
失礼をわかっていながら言いますとね、ここで映画が終わっててもよかった。ありゃ。言うてもうた。
ここまでの出来に圧倒され、すでに涙腺大決壊した後で、さらに旅する男をずっと観ることになるのですが、正直ちょっと辛かった。後半も悪くないんですよ。悪くないんです。悪くはありません。しつこいな。ただただ、前半に圧倒されすぎてしまいました。
ファティ・アキン監督が描きたかったのは寧ろ後半、というか全体、というか、旅と移民のお話ですよね。ジェノサイドだけが描きたかったわけじゃないと明言されてますし。「西部劇である」とも言ってます。
旅の男の物語です。しかもアメリカ的脚本をめざし、わかりやすく、どなた様にも楽しめる風に作り上げました。それなのに自分の感想が作り手の意図に沿っていないのが残念、というか申し訳ないんです。思ったものは仕方がないんですけど。
思ったものは仕方ないついでにさらに悪いこと書きますが、みんなが絶賛している主人公父ちゃん、この役者さんがですね、いつまでも若々しい男前のお兄ちゃんで、あまり年月を感じさせないお顔でしてね、それもちょっとあります。映画の中で10年近い歳月が流れる旅の物語ですが、その年月をあまり感じなかったんですよ。
アメリカ的脚本を目指したことを観ているときは知りませんでしたから、それも原因の一つかもしれません。今はインタビューとか読んでいろいろ知りましたから全然文句ありません。
「悪」をテーマにした三部作の最後の作品ですが、むしろ強調されるのは善と博愛だと強く感じます。主人公父ちゃんは最悪の目に遭いました。信仰を捨てようと思うほど酷くて、ちょっと神様を恨んだりするほどです。
でもですね、ストーリー全体をつつむのは主人公が次々に出会う善なる人たちです。いつも善なる人たちに助けられて生き延びます。人の世話になり力を貰って旅を続けるんですね。それだけじゃなく、それほど博愛と善に助けられているのにそれを自覚せず、わずかな悪を行使したりもします。そういうちょっとした複雑な善悪の出来事を交えながら西部劇的に西へ西へと旅する男です。
決して大袈裟な話じゃないと思えば、全体を貫く物語もだんだんいい感じに思えてきますね。
音楽です。こういうお話にそぐわないかのようなロックな音楽がBGMです。そうです。アレキサンダー・ハッケの音楽です。これいいですね。100年前からの事件や出来事を綴る物語なのに、カッコいい音楽をくっつけることでよりポップに、より誰もが見やすい映画に仕上がっています。アレキサンダー・ハッケは「クロッシング・ザ・ブリッジ」でイスタンブールの音楽を探る旅をしました。
「The Cut」と再びタイトルがドドーンと表示されたあと、エンドクレジットで延々と流れるサウンドトラックは素晴らしいの一言。ぐーっと鳴り響く音にいつまでも浸っていたいと思いましたよ。