主人公のプロデューサー、ジョアキムは、かつてパリでブイブイ言わしていた敏腕プロデューサーでしたがアメリカに移住してニュー・バーレスクをプロデュースしています。何か事情がありそうです。その彼と踊り子たちがわいわい言いながらフランス巡業ツアーをしているという、踊り子とプロデューサーの巡業の旅の物語が始まります。
ニュー・バーレスクと呼ばれるショーはキャバレーから発展したお色気とユーモアと大道芸の入り交じった独特のダンスショーなんですって。「さすらいの女神たち」に登場するダンサーたちは全員が現役のニュー・バーレスク・ダンサーだそうで、映画の演技は未体験、マチュー・アマルリックの監督としての手腕が発揮されます。彼女たちを使い、場末感漂うショービジネスの巡業映画を作り上げました。
ベテランのおねえさんたちによるニュー・バーレスクのショーは、ストリップと大道芸を併せ持つキャバレー的ダンスショーですが彼女たちにとっては芸術表現でもあります。プロデューサーのジョアキムはショーの内容にはあまり口出ししません。
おねえさんたちはいつもハイテンションでわーわー騒いでおります。ショービジネスのダンサーにとって躁状態を維持するのは職業上必要なことでもあります。バンドマンたちのツアーなんかにも共通する精神状態のコントロールです。コントロールというか、自然にそうなったりします。そういう気質でなければ人気商売は続けられません。ですがやはり潜在的に無理をしていて、そのため大抵は酒やドラッグ、はたまた宗教に溺れたりします。これはある意味仕方のない事とも言えます。でもダンサーのおねえさんたちは酒を飲んでもドラッグや怪しい宗教には興味がなさそうです。ここがだらしない音楽家と違うところです。彼女たちのショーはドラッグに溺れていて成り立つほど柔なものではないのです。そういうダンサーのおねえさんたち、カッコいいです。
ストーリーは、プロデューサーのジョアキムの事情と、それに付き合わされるような形になってしまったフランスツアーのダンサーたちの関係なんかを描きます。
プロデューサーのジョアキムはどうやら何かの事情で逃げるようにアメリカに渡った模様です。アメリカでニュー・バーレスクのショーのプロデュースを行い、パリを見返してやろうという非常に個人的な理由がツアーの根底に潜むご様子、そして序盤、いきなりパリ公演が不可能になったというような電話を受けながら怒鳴り散らしています。
場末のショーにふさわしく、フランスツアーは港町ばかりを回る羽目になります。最初はルアーヴルだったりします。この映画では辺境の港町を「フランスはフランスでも周辺の田舎町」という、いや、それで正しいのですがそういう認識でありまして、「何としてでもパリで成功させたい、成功させて俺を追い出した奴らを見返してやりたい」という鬱憤とともに、なかなか中心パリへ向かうことができない辛さなんかを見せてくれます。
いろいろあって、この映画はあるべき終わりへと向かうのですが、全体を見渡して一風変わった物語の映画であるということは明白です。そもそもニュー・バーレスクのショーというのが変わっています。このダンスショー、フランスツアー中の公演の模様なんかも見せてくれますが、意外とすんごく人気で成功しています。ショーに餓えている港町のお客で満杯だし、ジョアキムも舞台の袖から優れた芸術作品に触れる輝く眼をして眺めています。この映画ではニュー・バーレスクのショーをメインに据えていて、ショービジネスの世界の中での立ち位置なんかはあまり明白にしません。場末感などもことさら強調しません。立派な芸術活動に見えてきますし、実際そうなのだと思います。というこの価値観、この映画を観るとバーホーベンの「ショーガール」を思い出さずにおれないですね。妙な世界感が全体を包んでいます。
もうひとつ思い出す映画があります。
ハーモニー・コリンの「ミスター・ロンリー」です。こちらは生活できないレベルの演劇に携わる人々の共同生活を描いた映画で、全然違うし似ていない映画ですが芸術家たちの共同生活という部分が近い部分です。ただし「ミスター・ロンリー」の絶望的な苦しさに対して「さすらいの女神たち」のポジティブさは感動するレベルです。ここが正反対のところで、正反対という大きな共通点があるからこそ「ミスター・ロンリー」も思い出してしまったというわけです。
ポジティブさは「さすらいの女神たち」の大きな強みです。ダンサーのおねえさんたちのポジティブな生き様には力が宿っていますし、それをちゃんと表現できています。
この映画の中ではプロデューサーとダンサーたちは仲良くもしているし喧嘩もしますし、褒めちぎっていたと思えばボロクソに貶したりしながら生きています。何やってんのこの人たち、と見ていて笑ったり心配したりします。この関係がいったいどういう関係なのか、映画の最後まで見れば明らかになります。この関係は、まさに家族です。それに気づいた瞬間、大した物語でもないし皆が感動するクライマックスがあるわけでもないのに、何やら込み上げてくるものを感じます。
悪く言えば場末のストリップまがいの芸人たちです。末期的資本主義病に脳を冒された世間知らずの合理人間にとってはただの社会の底辺に蠢くカスの集団に見えるかもしれません。しかしこの表現者たちはひたすらにポジティブに生き抜いています。それは新しい家族の形だったりするんじゃないでしょうか。
地味な映画ですけど個人的にかなりずんずん来まして、案外忘れられない映画になりそうです。
監督で主演のマチュー・アマルリックは、役者でもないダンサーたちを集めよくもこれほどの映画を監督できたものですね。監督賞は伊達じゃありません。
役者として風貌も役にぴったりでした。「潜水服は蝶の夢を見る」そしてなんと言っても「チキンとプラム」が印象深かったですね。独特ですね、このひと。
カンヌ国際映画祭で最優秀監督賞、国際批評家連盟症を受賞。