個人的な事情ですいません、映画を観たときには「あとで感想文書こうっと」てことでこのブログの下書き欄にタイトルと一言二言メモしたりしておくんですね。今はそういう下書きがあと40個くらい溜まっていて絶賛消化月間をやっとります。で、この「インポッシブル」の下書きを開くと、タイトルと監督名と「絶賛」のひとこと。はて。何がそれほど絶賛なのだったろう、と今一所懸命思い出そうとしています。
J・A・バヨナ監督、スペイン映画の製作者たち
J・A・バヨナが監督と聞いて「やったぜ J・A!」と我がことのように喜んだのは「永遠のこどもたち」以来、監督作品になかなか出会えなかったからです。あのときも、監督より製作者であるギレルモ・デル・トロばかりが注目されていて不遇だったのかもしれないと思っていたもので。スペイン映画のお祭り「最終爆笑計画(スパニッシュ・ムービー)」にはカメオで出演もしていましたので、本国ではちゃんとやっているはずというのは判っていましたが、よい監督作品を作ってまた世界で売れてほしいと思っていたわけです。
それで、ついに監督作品が世に出たと思ったら、これが何とアメリカ資本もつぎ込まれてユアン・マクレガーとナオミ・ワッツという大スターが主演するびっくり超大作映画じゃありませんか。これはいったいどういう大抜擢なんでしょう。クレジットを見てみますとプロデューサーや他のスタッフは「永遠のこどもたち」の面々で、してみるとプロデューサーたちの営業力の勝利でもあるわけですね。いやすごい、ようやった、ほんとにようやった。
さて「インポッシブル」は2004年に起きたスマトラ沖地震の大洪水に見舞われた家族の話です。実話を元にしている奇跡の物語ということです。奇跡の物語というからには、一家全員が死亡して終わるというひどいラストには多分ならないでありましょう。ひどい災害に遭うのですから、命を賭けてがんばる話でありましょう。と、そういう予想がつくと思います。だからこれがもし普通のアメリカの大手資本による普通の大作なら、わざわざ見たいと思わないタイプの「最後は家族の愛」みたいなことになりそうな予感です。せいぜい洪水シーンの特撮が凄いとか、その程度でしょうか。
しかし監督がJ・Aというなら話は別です。それだけならまだ不信感があっても、製作の顔ぶれまで見ればこれは期待に胸膨らみます。というかたとえさほど面白くなくても一向に構わないとすら思ってます。というわけで観たわけですが、これは意外にも期待に応えてくれました。それどころか期待以上でした。だんだん思い出してきましたよ。
恐怖、痛み、絶望
家族で旅行中に大洪水に出会います。もういきなり大洪水の表現にびっくりしまくりで息も絶え絶え、この直後、さらに大変な目に遭います。やってくる洪水そのものも壮絶ですが、その後に瓦礫や泥水が襲いかかり、真の恐怖が始まります。「インポッシブル」の見どころのうちの大きな部分を占めているのが恐怖演出です。普通のパニック映画の域を完全に逸脱している恐怖と痛みの描写は半端じゃありません。これはホラー映画と言ってもいいくらいです。大小の瓦礫が濁流と共に襲いかかりまして、ぶつかって怪我したり大変な目に遭うわけですが、観ているだけでも痛いですし、痛すぎて熱出そうですし、耐性のない人が観たら嘔吐くかもしれません。ナオミ・ワッツの壮絶演技がこれまた凄くてですね、ナオミ・ワッツはもともと最強女優のひとりですがますます最強に拍車がかかります。
とにかく怖くて痛くて苦しいんです。徹底的に苦しい描写を続けるのは災害のリアリズム表現ですがそれだけじゃなく絶望というものを押し広げます。恐怖と痛みも恐ろしいですが、本当に怖いのはこの絶望という死に至る病です。
この映画は大きなストーリー的には「災害に遭い危機に陥る家族が再開できて救われる話」で、この基本から逸脱することはありません。下手に料理すれば安っぽく押しつけがましい感動と家族愛になりますが上手に料理してもやはり感動と家族愛の話にはなります。ですが上手に料理することによって違う感動、違う愛の話になり得ます。また、説得力にも関わってきます。
効果的に生を実感する感動を呼び起こさせるために、絶望パートの絶望感を徹底的にやるわけです。ここで遠慮して適度な恐怖で済ませてしまえば、生の実感が取って付けたような安直なものになりかねません。そういうわけで徹底的に恐怖と絶望に浸らせるという作戦です。たぶん。
はっきりいって息が出来ないほどの絶望描写に、こちらとしては「どうせ最後は助かるんだろ」などととても思えない状況になります。実際、家族全員が助かるとはとても思えません。そもそもハッピーエンドとは限らないぞ、と思えてきます。そう思わせることに成功するほどよく出来ています。また、プロデューサー軍団が米大手資本ではないというところが効いてきます。普通の娯楽活劇なら安心して観ていられますからね。
さて、恐怖と痛み、そして映画を覆い尽くす絶望パートでぜぃぜぃはぁはぁ言ってた後に、映画は少しずつ展開します。絶望状況から、何とか生き延びようという力のパートへ突入します。
ここでさらに「インポッシブル」の見どころその2がやってきます。で、これこそが本編最大の重要な要素、この映画をただの安っぽいファミリー愛やがんばり根性の映画ではなくさせているテーマそのものが少しずつ垣間見れる展開となるのです。その重要な要素とは何か、それは。
さくっとそれを書いてしまえば簡単なんですが、軽々しくなるのは本意じゃありませんので、少し回りくどく行きます。
がんばりということ
何かと普通の娯楽大作を引き合いに出して申し訳ないのですが、ありがちな「家族が助かるタイプの映画」を想像したときに真っ先に連想するものは「家族同士の愛の力」「生きる力に裏打ちされた個人の超がんばり」などではないでしょうか。特に「がんばる」については、油断していると当たり前のように思ってしまいます。映画的には見せ場にもなりますし、いざとなれば母ちゃんだってこんなにがんばれるという、運にも恵まれた形での「がんばる見せ場シーン」を多くの人が想像するかと思います。
これについて考えてみましょう。「超人的がんばりが良い結果を招く」というありがちなストーリーには、胡散臭い思想が根底に隠れています。「がんばると結果がついてくる」という安直な教育的思想に基づいているわけですね。それと「自分ががんばらなければどうにもならない」みたいな個人主義的な思想の発露でもあります。もう一つ付け加えるならば「自分の力で解決してこそ立派な人間」、さらに発展させれば「自力でがんばる者だけが上位に君臨し、がんばれない者は堕落する」、さらにもっとどぎつく言えば「結果を得られる者は他を蹴落としがんばった者だけ」という、だんだんと薄ら寒い思想が見えてきましたが、そうです、まさしく新自由主義のお化けが馬鹿大衆に対して洗脳するロジックこそが根っこにあるとわかります。
安直なストーリーにはこのようにおぞましい思想が見え隠れしているものでして、だから私は個人的に「ひどい目に遭ったけど」「がんばったことによって克服して」「ハッピーエンドで家族の愛♡」みたいなのに虫唾が走るのですね。
生き延びた理由
さて「インポッシブル」がどのような映画か、なぜ絶賛するのかというとこの部分です。他の普通のこの手の映画との決定的な違いは、「ひどい目に遭って」「克服して」は同じでも「がんばり」の部分が全く異なるところです。確かにがんばりますよ。そりゃあがんばります。しかし家族に起きた奇跡は家族のがんばりだけで得たものではありません。そこにあるのは、利己主義的個人主義の対極にあるものです。それは「他者への愛」です。家族の面々は事あるごとに他の人たちに手を差し伸べられて救われます。白人である彼らが見下しているような現地人であったり、同じ被災者だったり、同じけが人だったりさまざまです。被災した主人公家族のそれぞれはとてもがんばりますが、大きな災害の前では個人のがんばりなど全く無力です。この無力感は前半の絶望パートですでにしっかり描かれます。
災害時、個人は徹底的に無力です。いくらがんばろうがどうにもならないことだってあります。しかし個人が寄り添い、助け合うことが大きな力となります。
「インポッシブル」では絶望パートのあと、じわりじわりとこの「他人に助けられる」シーンが連続してきます。助けるほうも余裕を持って助けているわけではありません。皆、被災しています。自分だって大変です。でも足を怪我して動けない人を何とか助けようとします。自分も電話したいけど電池残量の少ない携帯電話を貸したりします。なぜそんなことをしますか。この他者への愛はきれい事でも嘘くさい似非の博愛でもありません。これこそ被災地のリアルです。こういうとき、人は人を助けるんです。これこそが「インポッシブル」が描く最重要事項だと私は確信しています。
主人公家族はそれを身をもって知るんですね。最初に助けてくれる現地人を、不安そうに不信の目で見上げるナオミ・ワッツの演技が迫真です。やがてだんだんと助けられているということをはっきりと自覚し始めます。映画後半の病院での息子のシーンではピークを迎えます。息子は自分も大変な状態なのに他人のために奔走しますよね。このシーンの人間としての美しさに胸を打たれなくてどうするというレベルの、明確にテーマを打ち出したシーンでした。
実際に被災したスペイン人(映画では確かイギリス人の設定だったかな)家族の実話ベースの話だそうです。家族は次々に多くの人に助けられました。自分ががんばったからではなく、助けられたから助かったのだとちゃんとわかりました。ここが「インポッシブル」が描いたユニークで筋の通ったテーマです。
「助け合いましょう」と言うのは簡単です。そういう話を偽善的に映画にするのも簡単でしょう。でも簡単には済ませなかった。きっちりそれを伝えるためには前半の絶望パートからずっと、慎重に描く必要があったと思うんですね。人助けや博愛など、軽く扱えば安っぽくなりがちな奥の深いテーマをちゃんと描くなんてのは大変なことだろうと思います。差別的発言かもしれませんが、白人にこのテーマでこのような映画を作ることは出来ないだろうとちょっと思います。スペイン人であるから作れた映画であると少し思ってますし、それを白人のスター俳優が演じたことによる異化効果が確かにあったのではとさえ思っています。
とにかく、ありがちで安っぽく嘘くさい映画にしないために、監督も俳優も皆がんばりました。
いえ、このがんばりについては真っ当に評価いたしますよ、もちろん。