スペイン映画に登場する女優の美しさはすでに異常事態です。一体全体、これほどの美女がどこから沸いてくるのかと不思議でなりません。しかも脱ぎっぷりの良さもほんとに、ねえ、もうね、いやはや、ありがとうございます。
さてこの「バスルーム 裸の2日間」っていう映画は、人気コラムニストである初老に近い中年男と、物書きを目指す女学生がバスルームで過ごすお話です。本編のほとんどがこのふたりだけの会話シーンで、裸です。
エロティックなシーンもありますが、寧ろ会話劇であり、裸であるというのは文字通り衣を脱ぎ捨てた裸の対話という、そんなテイストも含まれます。
「マドリード1987年」という、やや意味深なタイトルです。コラムニストはもちろんフランコ政権時代を体験してきた人ならではの人生観を持っています。彼の饒舌の中には注目すべき発言もいくつかあります。
が、しかし、そんな真面目な感想よりももっと直接的に伝わるのは、老いのコンプレックスと安い性欲に苦悩してみっともない饒舌を止められない中年男の哀愁や羞恥であります。
まぶしすぎる若い女性の裸体を前に、最大級のみっともなさでだらだらしゃべりまくるスーパーカッコ悪いおっさんです。
裸になる前はダサくても何となく偉そうに振る舞えていたこのおっさん、ぴちぴちギャルの芸術のような裸体と年老いたみっともない自分の体が晒され比較されるバスルームでは、何をどう喋っても存在として女学生に完全に負けています。それをわかっているものだから尚更言葉に衣を着せ鎧を着せます。自分は裸なのに。
このあたふたするおっさんの姿をおっさんが見るとですね、どうなるかというとですね、せっかく美女のヌードが惜しげもなく登場する映画なのに、おっさんとしてのみっともなさが伝わりすぎて恥ずかしくて消えたくなります。つまりこのコラムニストと同化してしまって情けないことになります。ゴリラは完全萎縮で再起不能です。エロ目的でこの映画を見ようなどと、おっさんであれば決して思ってはいけません。
しかし感心するところもあります。初老に近いこのおっさんの「やりたい」気持ちの強さにちょっと尊敬の念すら沸いてくるです。スペイン人、強いなあと。ちょっと見習ったほうがいいかもしれませんよ。エロスは生の源、生きる力のエネルギーです。
この映画、「それでおっさんと美女はやれるのかやれないのか」というところを引っ張りますが、優れているのは引っ張ることを目的化していない点です。詳しくは申しませんが、その部分に関しては、より男の哀れを強調します。
さて、では女性の側からはどうなんでしょう。わりと謎性を秘めた女学生です。彼女の家族の話がでてきまして、ここにも独裁政権時代の影が落ちています。
1987年はフランコ政権崩壊から12年ほどですから、まだまだ昔話ではありません。
新しい時代の新しい女性像と言えなくもありません。
独裁政権時代は女性が職業に就くなどもってのほかというファシストが大好きな「家族のあり方という道徳の押しつけ」をやっていましたから(「カラスの飼育」)、そういう価値観から解放されて自立を目指す女性が多く現れた時期なのかもしれません。
有名執筆家に枕営業するくらいの根性を最初から持ち合わせていたのか、また逆に、文学少女にありがちな「性を畏れないふり」をする鎧を着ていただけなのか、またあるいは、とてもピュアな動機であったのか、どれとも受け取れるような、よくわからないままに進行しますが、最後はちょっぴりキュンとなる演出がされています。
監督・脚本のデヴィッド・トルエバはこのような書物も出しており、原作なのか後から出たシナリオ本なのか知りませんけど、とても文学的な素性の方なのかもしれません。
登場人物は少ないです。ほぼおっさんと美女です。その他はわずかです。
執筆家ミゲルを演じた人はホセ・サクリスタンという人で、えーと、よく知りません。中年男のみっともなさを全開で表現できて役者って偉いなと思いました。
そして美女はマリア・バルベルデです。日本でも知られているようですね。なんせ美女です。
他にはウエイターと画家の友達が登場します。
ウエイターをやっていたのは一度見たら忘れもしない「みんなのしあわせ」のダースベイダー、エドゥアルド・アントゥニャです。スペイン映画には欠かせないぽっちゃり型の人の良さそうなキャラクターです。
画家のほうは誰でしょう。ちょっとむさくるしくて面白そうな人でした。
というわけで、なかなか面白い作品でした。饒舌がうざいと思う人には耐えられないほど面白くないでしょう。