というか「ミツバチのささやき」が凄すぎるんです。
いきなりこう言っては身も蓋もありませんが、21世紀の今日に観ても全く古びないどころかその映像の力に誰もがひれ伏しひざまずく名作中の名作、「ミツバチのささやき」と宇宙一の瞳の持ち主アナ・トレントです。その魅力に取り憑かれた映画関係者は誰もが「アナ起用で映画を作りたいっ」と考えたことでしょう。
1967年から映画を撮っている今や大巨匠のカルロス・サウラもそう考えました。そしてアナ・トレント出ずっぱりの「カラスの飼育」を作ったんですね。
もともとはある大通りに面した大きな屋敷をロケーションに映画を作りたいという構想があったそうです。現代的な表通りと門を挟んで奥にそびえる古風で閉鎖的な屋敷のギャップが面白く、ここで閉鎖環境にあるドラマを作りたい、と。この構想とアナ・トレントがひとつになって「カラスの飼育」が生まれました。たぶん。
アナでないとやだやだ、とカルロス・サウラが言ったのかどうか、もう娘を映画には出演させないという決意の父親を説得するのが大変だったらしいですね。この説得が失敗すれば映画が誕生することもなかったでしょう。それほど重要なアナ・トレントと古いお屋敷です。この二つが結びついてできあがった「カラスの飼育」はどんなお話でしょう。
こんなお話です。
お屋敷に住む三姉妹です。数年前に母親を亡くして、軍人の父親、車椅子の祖母、家政婦のロサと暮らしています。父親は好色な男で、いろんなところで遊びほうけて母親を悩ませていました。三姉妹、とりわけ次女のアナは「母親が死んだのは父親のせいだ」と考えています。
ある日父親が知人女性と情事っています。そーっと階段を降りてその様子をうかがうアナ。情事の真っ最中に父親が急死します。腹上死なのか何なのか、とにかく死亡します。知人女性は慌てて逃げ帰ります。
死んだ父親に「パパ」と話しかけた後、アナは部屋にあったミルクの飲み残しコップを下げ、台所で丹念に洗います。コップを片付けていると母親が現れます。「何やってんのもう遅い時間よ」
最初意味わかりませんが、アナが時々見る母親の亡霊です。幽霊ではなくてアナの思い出の具現化です。「カラスの飼育」ではふとした拍子にときどきこうやってアナの前に母親が登場します。
父親の死後、母親の妹パウリナが後見人として屋敷にやってきて姉妹の母親代わりとなります。外界から遮断されたようなお屋敷で、新しい暮らしが始まる三姉妹とパウリナです。
このような冒頭で始まるアナの物語です。母親の亡霊と対面しながら心を閉ざすアナの無邪気な悪意と残酷の物語です。というかほとんどアナ・トレントのアイドル映画と言ってもいいほどのフィーチャーぶりです。
73年にフランコ政権が崩壊し、フランコが死んだ75年に完成したこの作品、時代背景的な影響が色濃く残っています。ホームドラマであって政治的な映画ではありませんが、父親が軍人であることをはじめ各所に独裁政権への暗喩が含まれます。評論家による無理矢理な暗喩の理解は制作者たちの意図を超えている部分もありますが、意図せずとも滲み出た政治的表現と言えなくもないです。ですがあまり暗喩暗喩言うのはどうかとも思います。
ただ、政治的スタンスよりもはっきり目立つのはフランコ時代のドメスティックファシズムというか「家族のあり方」あるいは「女性の正しい姿」の強制というものが根底に横たわっているところです。
独裁政治をやる奴、あるいはファシスト気質の奴ってのはいつの時代のどんな奴でも身勝手な道徳感を持っています。たとえば「家族はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という家族というものへの歪んだ道徳感です。
「家族は父親中心の封建社会であるべき」「結婚したら必ず男性の姓を名乗るべき」「女性の自立を否定すべき」「女性は貞操観念を第一義に生きるべき」「女性は家事と育児だけやるべき」「親族に生活保護受給者がいたら自らを犠牲にして面倒をみるべき」
果ては「お国のために死ぬべき」「被爆して死んでも経団連の利益を守るべき」「国歌を歌うべき」「煙草はやめるべき」「田舎者は都会の金持ちのために資産を献上すべき」「決まり事を守らないやつは死ぬべき」などなどそういったことを強制したがる阿保です。己の道徳観だけで「べき、べき」言う「べき人間」です。
こういうべき人間はあちらこちらに生息しています。己の単純で歪な道徳感をわーわーわめいているだけならともかく、こういうのが権力を持ったら大変です。べきに取り憑かれ発狂していても誰もそれに逆らえず、むしろ同じような単細胞べき人間の支持を集めて有頂天となり、想像力欠如の幼児性道徳感を部下や国民に強制します。独裁者または独裁者もどきの権力者はいつでも家族のあり方から生きる姿勢まで、自分好みに他者を矯正しようとします。また、強制されることを喜ぶマゾ庶民もいます。
「カラスの飼育」の父親は好色な軍人、母親は活動を辞めたピアニストです。独裁政権下で強制されてきた「正しい家族のあり方」のために少々歪んだ家族になっています。そういう設定です。
次女アナは無邪気な残酷さを持っています。家族の死を自分がコントロールできると思っています。この設定がほんといい感じで効いています。この設定を「独裁国家の転覆を目論む人」の暗喩というのは言い過ぎだと思っております。そんな暗喩はださいです。
さて、そういうわけで気を取り直して感想文の羅列です。
「カラスの飼育」を観たときに最初「ちょっと間延びしているな」とか「アナばっかり出し過ぎやな」とか、ちょっぴり否定的な感想も持ちました。でもこの間延び感はカルロス・サウラの特徴でもあるし、じっくり見せていい感じというふうにも思えてきます。
「ゴヤ」も、いいシーンが多いのにどのシーンもじっとり長めでした。
アナの出過ぎもまあ、みんな見たいからそれでいいか、と。
映画を見終わって反芻していると、じわじわと良くなってきます。観ている間より見終わったあとからじわーっと味が出てくるんですね。やっぱりとてもよく出来ているってことなのだなあと思いました。
お手伝いのロサが面白いです。この手のお手伝いさんは、こどもに媚びることも必要以上に甘やかすこともせず、自分と対等に扱ったりして、うっかり大人の会話をだらだら聞かせたりしましてですね、とても面白いのです。こどもを対等に扱うと言うより、ただ自分の言いたいことを言っているだけという感じもします。「エル・スール」の家政婦もそうでした。スペインの家政婦のおばちゃん、おもろいです。尚、ロサはでかいおっぱいが自慢です。
三姉妹がいい感じです。お姉ちゃんは「ミツバチのささやき」のお姉ちゃんに口元がよく似た子で、ちょっと大きい子ですが、しっかりしているのかまだ子供なのか微妙な年頃の可笑しさに満ちています。
末っ子がまたまたいい感じで、末っ子のチビ助って、どうしてこんなに面白いんでしょう。もうね、可愛くてたいへんです。
食事中に三姉妹が叱られるシーンがあります。長女には「綺麗にフォークを使いなさい」次女には「ナイフの持ち方が悪い」そして三女には「人間らしく食べなさい」
ジェラルディン・チャップリンが演じる死んだ母親の亡霊です。どことなく現実味が薄い表現です。同じ言葉を繰り返したりします。死の床においても、なんというか、嘘くさい演技をします。これには当然理由があって、つまり母親の亡霊は「アナの記憶」であるということですので、だから単純化されているわけです。ジェラルディン・チャップリンは映画出演の際、監督から「叔母の役か母親の役か好きなほうを選んでね」と言われ、母親役を選んだそうです。でも後に「叔母の役のほうが良かったな」と思ったんだとか。
そのジェラルディン・チャップリン、次女アナの大人になった姿でも登場します。二役です。
この頃のスペイン映画・・・というか、ケレヘタプロデュースの面々というか、どうもある傾向があるようです。つまりそれは、子供時代を描いた作品の中で、大人になった主人公が過去を振り返るシーンを付け加えるという傾向です。
「カラスの飼育」でも突然大人のアナが出てきて、カメラ目線でインタビューに答えるんです。「・・・あの頃の私は・・・」てな調子です。
今観ると「いや、大人のアナいらんし」と思ってしまいます。「振り返らなくていいし」
「ミツバチのささやき」も、最初の構想では大人になったアナが村を訪れ子供時代を回想するところから始まるというものだったそうです。単に「思い出」の再現フィルム的形相です。この構想、不採用にしてくれて本当によかったですね。
同じくビクトル・エリセの「エル・スール」も回想進行です。主人公少女がときどきじっと佇むあいだ、もうちょっと大人になった声が「そう、あのとき私は・・・」と、過去を振り返る形で出てきます。「エル・スール」ではそのモノローグは効果的でしたが、でもちょっと違和感も感じなくはないです。
こういうのって、当時の流行だったのかな、なんて思います。
後見人となる叔母パウリナは哀れな役で、厳しさと優しさを持ち、一所懸命姉妹のために頑張りますが信頼されません。モニカ・ランドルが演じています。綺麗な人です。
「アーモンド姫」の件なんか、とても哀しいです。男の子の私は「アーモンド姫」のシーンで「パウリナ可愛そう。俺だったら喜ぶのに」と思いましたが、女の子の我が家の奥様は「あのタイミングは糞最悪。私もアナと同じように『死ね』と思ったわ」とのことです。なるほど、受け取り方の男女差ってのがあるんですね。
男女差はあっても、おっさんとおばはんを男の子女の子言うのはやめろという天の声が今聞こえました。
※ アーモンド姫についてのネタバレ解説はFacebookのMovieBooページのこの投稿に。
アナが繰り返し聴く曲はジャネットの「ポルケ・テ・バス」で、当時はヒット曲ではなく、でもカルロス・サウラがあまりにも好きだから、皆の反対を押し切って採用したそうです。この曲が鳴るシーンも、カルロス・サウラらしく、しっかりたっぷりフルコーラスで無理矢理聴かされます。で、「カラスの飼育」公開後、この曲は大ヒットしたんですって。ずっと後に日本で紹介されたときもヒットしました。
これほどしつこく聴かされれば誰でも好きになります。脳からこの曲を追い出すことが出来ませんでした。
皆様にもこの 苦痛 喜びを味わって頂くべく、Youtubeで「Cria Cuervos – Porque te vas」検索して、3回繰り返してください。
このシーンの踊りはこどもたちが考えたアドリブだそうですよ。
「カラスの飼育」というタイトルは、スペインのことわざ「カラスを飼っても目玉をくり抜かれるのがオチ」の最初の二語らしいです。日本で言えば「恩を仇で返す」「飼い犬に手を噛まれる」みたいな感じだとのこと。
紀伊國屋書店から出ているDVDはニューマスター版で、とても綺麗な仕上がりです。以前の、ビデオ版やPALから無理矢理日本仕様にしていたDVDと違い、格段によい画質になっているようです。音楽のピッチも正しいものになっているのだとか。いい作品を出してくれてます。
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