日本では2011年の末頃に劇場公開していましたね。これ観たかったんですよ。観とけばよかったー。いや今からでも遅くないです。DVD出ました。
さて世界最大の巡礼地ルルドです。むかし少女が聖母マリアに出会って泉の水で顔を洗ったことから(←省略しすぎ)一気に聖地となったピレネー山脈の麓の村です。
「ルルドの奇跡」は個人的にも馴染みが深く、昔オカルトと破滅願望に取り憑かれた友人が「これを読め」と何十冊も怪しげなオカルトや終末本を持ってきて読まされたことがあって、いや、実際には面白いから全部読んだんですが、まあそんなこんなで怪しい方面にてちょっと詳しいものだから興味がないというわけではなかった、てのもあります。またそれとは別にルルド村の素朴でありながら超観光地としての側面や建築や美術なんかにも興味があって、個人的なところとしてそのルルドを題材にした映画っていうだけで「よし観た」と決定するような、そんな映画だったわけです。で、やっと観れました。こんな個人的事情はどうでもよろしい。はいすいません。
さて監督のジェシカ・ハウスナーはミヒャエル・ハネケに師事していたことも知られており、技術的な興味も尽きません。まずそこからの話ですが、いやもうほんと、マジで映画技術に長けておられます。ハネケ直伝の技術なのかどうなのか、撮り方やカットの時間感覚がかなり高度なのでして、技術に裏打ちされた映像表現がここまで力を持ち得るのかということと、その技術は学習可能で決して芸術家の感覚的なものではないのだということが実感できます。
冒頭の素晴らしいシーンからして力みなぎります。冒頭はこうです。レストランというにはひなびた感じの会場に食器が並べられていくシーンです。食堂を斜めから俯瞰する制止した広角の構図に、女給さんの姿がちらりほらりと映ります。「アベマリア」が鳴っております。次第にちらりほらりと人がやってきます。どこに座ろうかな、と少々おどおどしていたりして慣れていないということが示されます。車椅子がひとり、ふたり、とやってきて、それから介護する女性の制服も見えます。この食堂は体が悪い人たちの集う場所であることが判ります。
この冒頭で、これから始まる映画がどういう人たちのどういう状況でのお話なのかを明確に示しており、どういう技法、どういう雰囲気の映画であるのかということさえ宣言します。シーンを切り取る絶妙さをここで感じ取って超わくわくするか、退屈そうな映画だなと思うか、ここできっぱりと分かれます。超わくわくするタイプの人はこの先も全く裏切られることなく、わくわくぞわぞわどきどきふるふるしっぱなしです。ふるふるってなんだ。
まあ何しろとても素晴らしい冒頭で、初っぱなから前のめりになります。
「ルルドの泉で」に多少なりとも興味を持った人は広報のイントロダクションに触れたことがあるかもしれません。細かいことですが、やはり広報にちょっとだけ文句があります。
ここで紹介しませんが、広報が「イントロダクション」として紹介している「ルルドの泉で」のイントロは、イントロではありません。映画の半分以上、メインのストーリーのほとんどを語ってしまっています。
ええそうですよ。この作品、ストーリーを全て説明するのに数行あれば事足りるんです。聖地巡礼ツアーに参加したマヒの女性が各所をまわる話ですから。
紹介するとすれば、マヒの女性の介護を担当するギャル看護師(レア・セドゥー)、その上司である真面目で慈悲に満ちたセシル(エリナ・レーヴェンソン)、同室の信仰心が強い謎のおばさま、他のツアー参加者たち、神父、ツアーの手伝いを行っている男性公務員たち、そういった人たちの言葉や挙動、関係などを示しておいたほうがよほど効果的だと思いました。
それと、かなり交渉して行えたというルルドのオールロケです。これは凄いそうですね。いや、あまり事情は知りませんが、ああいう宗教儀式みたいなシーンを撮影できるなんて貴重そうですよ。いやほんと。こっちのほうを広報のメインに据えてもよかったのにな、と思いました。でも、まあいいか、どうでも。
さて、というわけでルルドの奇跡についての映画ですから、奇跡が起こるのか、誰に起こるのか、何も起きないのか、それは観てのお楽しみ・・・・と、いいたいところですが広報がイントロとしてさくっとばらしておりますのでまあいいか、車椅子から立ち上がります。
「クララが立った!」とは誰もいいません。静かに立ち上がります。この奇跡が起きるシーンもそうですが、もうね、めちゃくちゃ押さえています。押さえ込んでいます。この押さえた演出が観ているものの心をかき立てます。安いドラマに毒された人が見たら「もっと反応ないんかいっ」とイライラするかもしれません。そんな人はこの押さえ込んだ演出の力というものに触れてですね、お芝居の新たな地平に立ってみてください。
こうした文芸派の演出は一般によく言われるような「小難しい」「難解」なんじゃなくてですね、例えばコメディで「笑うの禁止」って条件つけたら可笑しさが倍増するような、あれと同じことなんですよ、簡単に言うと。
さて押さえ込んだ演出には押さえ込んだ演技です。まあ出演者の皆さん素晴らしい。で、とりわけ主人公のあまり信仰心が厚くない若い女性、これを演じているシルヴィー・テステューですが、上手ですよー。もうね、顔でね、目や口元だけでありとあらゆる感情表現が出来ます。あまりにも細やかな感情表現です。いちいち例を挙げれば切りがありませんが、ストーリーに起伏がない分、心が踊り狂います。看護師との絡みもいいし、きょとんとしているところもいいし、なんかもうあちらこちらいいです。ラストシーン直前などは鳥肌立ちます。ほんとです。
シルヴィー・テステューは「サガン-悲しみよこんにちは-」のあの女優です。観てませんがスチールで見たことあります。
「ルルドの泉で」には多くの問いかけがあります。
例えばある人が神父に質問するシーンがあります。「神は全能なのか、それとも善なのか」
神学論争には詳しくないので学問的なところからは逃げますが、全能であることと善なることを比較している点が大いに興味深いです。全能と善が両立しないことを問うているんですね。全能であれば悪を内包するし、善であれば悪を含まず全能とは言えないというわけです。
これに対し神に仕えるものは上手に逃げます。神が悪を内包することを認めるわけにいかないからでしょうか。
本当のところ無学にてわかりませんが、勝手にそのように思った次第です。
障害を持った女性は普通の女性なので、純粋にこうのぞみます。「私も健康になって普通に暮らしたい」神に仕えるものはそうした考えを柔らかくたしなめますが、その言葉を聞くまでもなく、映画のシークエンスとしていくつかの伏線があります。例えばルルドの洞窟を見学する為にみんなは行列を作って並んでいますが、車椅子の人は行列の横から優先的に洞窟に入れたりします。また、介護人のセシルは献身的に障碍者に尽くし、寝る時間も惜しむ過労状態です。彼女は五体満足で介護人ですが、顔色悪く、体の状態はよくありません。誰も彼女に優しく手をさしのべる人はいません。
神が奇跡を起こせるとして、奇跡を起こす対象をどうやって選別するのかと誰もが思います。特に信心深いわけでもなく、毎年ルルドを訪れているわけでもないそこいらの女の子に奇跡が起きて、信仰の厚い長年常連の人に何も起きないとき、神の意図はどこにあるのでしょうか。
ただまあはっきりしているのは「汝、妬むなかれ」ってことで、妬みはよくありません。しかし車椅子の女の子は健康な人を妬んでいます。「私より重傷のひとがいたって可愛そうと思わない。私が健康になりたい」と女の子は正直にも言います。両者に違いはあるのでしょうか、また別の話なのでしょうか。
担当の介護人は健康そうなギャルです。「ホントはさー、去年まではさー、毎年スキー行ってたのね、でもねー、なんかねー、もっとこう人の役に立って、ていうかー、生き甲斐っていうかー」まあそんな調子で、全然悪い子じゃないしいい子なんですが、これが車椅子の女の子の妬みの対象になったりするんですね。仕方ないんですけど。この介護士を見て、映画を観るこちらがどう思うかも試されているよな気がします。「ちょっとあんた、遊び半分で来てんじゃないわよ」と少々の怒りが沸くか、「若い健康的な女の子なんだから仕方なかんべ、悪気もないし、いい子だべ」と思うか、やはり問われているんじゃないでしょうか。私はもちろん後者です。人間が出来ているからでなく女の子なら誰でも可愛いからです。
書き始めたらキリがありませんので大概にしておきますが、こうした興味深い内容に加えてルルドのロケによる奇跡認定医師の存在や司教様の儀式、楽しそうな観光地や美しい丘の景色も楽しめて、主人公女性の超絶演技にも触れられて、ストーリーは数行で済むような話ながら、その濃い中身は忙しくって大変なほどです。
「ルルドの泉で」は、予想通りの素晴らしい作品でした。
ヴェネチア国際映画祭5部門、ワルシャワ国際映画祭グランプリ、ヨーロピアン・フィルムアワード最終週女優賞をはじめウィーン、セビリヤ、スウェーデン、オーストリアの映画賞で受賞。
“ルルドの泉で” への2件の返信