これは紹介の仕方が非常に難しい映画であります。
一番楽なのは「トト・ザ・ヒーロー」の監督の待望の新作!っていう感じの言い方でしょう。「トト・ザ・ヒーロー」と同じく主人公の一生を描いた物語で、子供の頃の鮮明な記憶を老人になっても維持しているという基本ノスタルジーに満ちた映画です。
「トト・ザ・ヒーロー」ではサスペンスフルな展開や人との関係を軸にじっくりと物語を推し進め、最後の最後に一瞬夢のようなファンタジーシーンが現れて観る者の涙腺を直撃しますが、本作ではファンタジックな演出が全編にみなぎります。
公式のイントロダクションを引用するとこうです。
「舞台は2092年。
そこは化学の力で人間が死ぬことのない世界になっていた。 ニモは118歳の誕生日を前に今まさに人生を終えようとしている、世界最高齢で唯一の”死ぬ”人間である。世界中が、ニモが息を引き取る瞬間を見届けようと注目している中、1人の新聞記者がニモに質問する。――人間が不死となる前の世界は?ニモは少しずつ自分の人生について振り返りながら過去を思い出し、語り出すが――」
その通りなんですが、ここだけが一人歩きすると「ちゃちなSFだな」と思われかねません。いや思われたほうがいいのかも。うーむ。難しい。
ほんとのことをいうと、この設定よりもSF設定として重要なのは多重世界的なアプローチをとっている点です。
老人が思い返す人生にはいくつも人生の岐路があります。こうするべきか、ああするべきか、岐路の選択をする局面はいくつもあるわけですが、この映画はその選択肢のいずれをも描くんですね。別の選択をして発生したパラレルワールドをどれもこれも描き込みます。
ですから、未来社会SFではなくて、パラレルワールド物と認識したほうが取っつきはいいかもしれません。
いずれにせよ、突飛な設定ですがその内容は大人の鑑賞に堪える落ち着いた物語です。
ということで、この老人が自分の一生を振り返ります。
老人の記憶ですから、節々がいい加減です。
「昔はこうじゃった。わしはこうこう、こういう風にしておった」などと昔を振り返る老人語りは、時間はバラバラ、記憶はあやふや、さらに人生の岐路での選択を両方行ってしまうものだからその後の人生が複数あったりします。アンナと結婚した人生だったりエリーナと結婚した人生だったりします。
「もしあのときこうしていたら」をタイムスリップで描いた「バタフライ・エフェクト」という映画がありましたが、まさにあんな感じです。「ミスター・ノーバディ」でもバタフライ効果が重要なキーワードになっています。
ただしこちらは「もしあの時こうしていたら」を問うのではなく、それらが全て同時に実現してしまっている世界を描きます。「もし」はないのです。
「ミスター・ノーバディ」はいろいろな解釈を楽しめる映画でもあります。
パラレルワールドの出現を、老人の頼りない記憶として見る見方もありです。記憶が正しいかどうかは記憶を持つ本人にとって重要ではないという、その場合、筒井康隆「昔は良かったなあ」を彷彿とさせます。
どの過去が正しくどの過去が妄想かという問いはもちろん映画の見方として間違ってます。どれも正しい過去なのです。
さまざまな人生の岐路を全て生き抜いた老人の語り、この映画にオチは来るのでしょうか。どのようなオチで収束してくれるのでしょうか。
ラスト近くに、とっても重要な収束要素はやってきます。ここで胸を鷲掴みにされるでしょう。最重要なそのシーンは映画的には紛れもない収束のシーンであり総括のシーンであり全身鳥肌で心を持って行かれること間違いなしです。
しかし実はそれさえ全てを収束しているわけでもなく、最終的には解釈の一つを示しているにすぎず、本当の解釈はやはり少し遠くに置き去りにされます。
すっきりさわやか全ての謎が解けたやんややんやというわけにはいきません。しかし厭な気持ちにはなりません。
意外なことにリンチの「インランド・エンパイア」と共通している部分が多くあります。複数の解釈が成り立つスパイラル構造を持っている点です。複数の世界を生きる同一人物というのも同じです。
いくつかの解釈の中で「今際の際の泡沫の夢」という解釈がありますが、これが「ミスター・ノーバディ」でもヒントとなる考え方になります。
脚本の練り込みは6年に渡ったそうで、複雑に絡み合ったいくつもの世界に関する考察は丁寧きわまりないものとなっております。
複数の解釈を楽しめること自体も、自由な見方を肯定している脚本に追うところが多いです。解釈を楽しんでもいいし、そんな無粋なことをせずファンタジーとして感情の趣くまま楽しんでもいいという案配です。
大事なあるシーンについて思うところがあります。あるシーンを敢えて描かなかった、あるいは脚本の段階で抹消したのではないかと思う幻のシーンがあるように思えて仕方ないんですね。
映画を観た方ならピンと来るかもしれませんが、つまりその、先ほどちょっと書いた「泡沫の夢」解釈であるなら、今際の際がいつなのか、ということです。それを直接描画してしまえば解釈の一本道になってしまいますから当然作り手はこれを避けます。描くつもりのないシーンですから抹消というのも変ですが、映画から抹消されたそのシーンを思うとさらに心が痛みます。それがいつのことなのか強く想像できるシーンがあるからです。クライマックスに訪れるあの収束シーンの直後というふうに考えざるを得ません。辛さ満開です。
ま、こういうこじつけごっこは観た者同士がわーわー言い合う内容ですからそれぞれ楽しみましょう。
映像はCGてんこ盛りの特殊エフェクト大氾濫です。画面やシーンの切り替えから何から何まで、手間暇かけたスタイリッシュなエフェクトで満ちています。今時やりすぎやろと思うほどです。でもここまでやったら逆に天晴れでございましょう。
「ミスター・ノーバディ」は絶賛すべき映画ですがそこに一歩届かぬ惜しい感もなくはないです。個人的に。
その理由はわかっています。まず、文学的ファンタジーの作品として「広角系」ではなく「クローズアップ系」だからです。もちろんこの系は私が勝手に作った系です。
広角系とは文字通り広角レンズの多用のことですが、同時に世界への介入感も広角レンズに相応しく俯瞰的で冷静でクールなんですね。醒めてます。
クローズアップ系はクローズアップの多用、深く掘り下げ感情的で心的追求が目立ちます。
クローズアップ系でしかも青春時代の愛のドラマが中心ですから、そこら辺がちょっとだけ絶賛からずれる部分ではあります。恋の部分がもうちょっと少なくて、そうじゃない部分の物語をもっと膨らませてくれていれば、相当な大好物映画であったろうと思います。あくまで超個人的感覚の問題です。お気になさいませんよう。
そういう些細な戯言を除けば、この練り込まれた脚本、演技や演出、混乱を押さえたカメラや編集、色調から角度まで、どれもこれも映画技術的にずば抜けており、傑作であると断言してよいでしょう。
出演者の中で特に目を引く若いジャーナリスト、まあるいお目々とおちょぼ口のあの個性的な顔の俳優は「ヴェラ・ドレイク」の息子さん役、イギリス人俳優ダニエル・メイズです。この人の顔はほんとにいい顔ですね。
サラ・ポーリーも熱演、よく似合う役でした。「バロン」の小生意気な娘ももはやこんなところまで。
主演のジャレッド・レトーはイケメンでいろんな役をこなします。ジム・キャリーやハリーポッターや野村宏伸やいろんな人に似ていたりします。「レクイエム・フォー・ドリーム」や「シン・レッド・ライン」や「ロード・オブ・フォー」なんかに出ていたんですね。
そういえば「トト・ザ・ヒーロー」はDVDになっていませんか? ビデオなら出てたんですけどねえ。まだまだ名作がDVD化されてないですねえ。
追記。なんと「トト・ザ・ヒーロー」DVD出ました。再発なんですか?わかりませんが、廉価でお得。「ミスター・ノーバディ」もいつのまにか発売されています。
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