スタイリッシュな映像と現代風の音楽に乗せてお届けする青春人情物語。
スラムで育った血も涙もないチンピラがひょんな事から赤ちゃんを誘拐してしまい、赤ちゃんパワーで人間らしさを獲得していくというありがちなストーリーです。ありがちとはいいますが、舞台は南アフリカはヨハネスブルグ近くのスラム。世界一治安が悪いとも言われる荒れ狂った土地です。アパルトヘイトが廃止されて十余年、黒人社会を含むスーパー格差社会が形成され、アパルトヘイト時代の傷跡が別の形で表面化している地帯です。
自宅の門の前で車から降りることすら危険すぎて出来ないような土地柄です。
貧困パワーは桁外れ。主人公の少年ツォツィは強い生命力で生き抜いています。生き抜く=犯罪です。何も得られないとすれば、他者から奪うしかありません。
ここで、狭い世間にぬるぬると生きて他者への想像力が働かない心的貧困な人間は「最初から赤ん坊を誘拐するなよ」とか「そもそも人殺しの犯罪者じゃん」とか軽く見てしまうかもしれませんが、そういうぬるぬる人にも判りやすく南アの貧困少年を描写する箇所がたくさん散りばめられています。
冒頭から足し算の出来ない様子が描かれますし、銃で脅さなければ赤ん坊に乳を分けてやってくれと頼むことも出来ません。赤ちゃん用のおもちゃは「錆びた鉄」「割れたガラス」としか認識できず、他者に人格があるなどという想像力はまったくありません。
これはギャング仲間の「先生」と呼ばれる男のセリフでも丁寧に描かれます。「品位」です。品位即ち思慮深さ即ち他者への想像力即ち自我の目覚めです。
人格すらきちんと形成されずに育った野生児に対して、満ち足りた文明人側のモラルを基準に攻撃することは許されません。
この映画中に描かれるそういった丁寧な描写が、主人公の未熟さとその未熟さがどこから来るものなのかを説明してるんですね。
「先生」の役割は、貧困社会の少年犯罪防止に関するひとつの指針を暗示します。
ツォツィのような連中が「品位」を得るための最も効率の良い方法は学ぶことです。計算が出来、文字の読み書きが出来、師から多くのことを学び取ることが出来れば、悲惨な子たちを産み出さない大きな力になります。
いろいろと学び、考えることを知ったツォツィは先生に「教員免許を取れ」と言うところまで成長します。
つまり学校です。
学ぶことによって少年犯罪の多くが防止出来るはずというメッセージがここに含まれていると強く感じます。真意は知りませんが。
さてこの作品、DVDには異なるエンディングが本編以外にふたつ収録されていました。
監督はどのようなエンディングが相応しいか、随分悩んだようです。
結局、本編のようなラストを選んだわけですが、これにより鑑賞者はその後の状況を想像することができるオチとなります。
情状酌量の余地があるのか、酷い仕打ちに終わるのか、逃げるのか、死ぬのか。いろんな「その後」が想像できますね。私はオマケ映像の別エンディングより本編のエンディングを支持します。他の二つの「ミルク瓶のエピソード」が臭すぎるのが主な理由ですが、ツォツィのか弱さが最も印象深く残るからです。
ラストシーンのツォツィは凶悪なギャングでも反省した犯罪者でもなく、初めて自我に目覚めた子供のように見えます。
第78回アカデミー賞外国語映画賞を受賞。
その他、デンバー国際映画祭 – 観客賞、エディンバラ国際映画祭 – 最優秀作品賞・観客賞、トロント国際映画祭 – 観客賞、アメリカ映画協会国際映画祭 – 観客賞、セントルイス国際映画祭 – 観客賞、テッサロニキ国際映画祭 – ギリシャ議会人権価値賞、サンタバーバラ国際映画祭 – 観客賞、パンアフリカ映画 – 批評家賞受賞。
基本的に、流行音楽やスタイリッシュな映像に載せて、わかりやすく軽く作られた作品です。重々しいところは全くありません。
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