ピューリッツァ賞も受賞した大ヒット戯曲「ダウト 疑いをめぐる寓話」を劇作家ジャン・パトリック・シャンリーが自ら脚本・監督して映画化した作品。
2009年、第81回アカデミー賞では4部門にノミネートされたものの受賞ならず。
1964年は進歩派と保守派が大きく入れ替わる激動の時期であり、カトリック学校もそれまでの厳格で保守的なシステムが新しい考えに入れ替わろうとしていた時期でありまして、それを背景に進歩派のフリン神父と保守派のシスター・アロイシアス校長の確執、というかシスター・アロイシアスの”疑い”の発生と展開を描いていきます。
神父と校長の二大巨頭の間に立って翻弄される新人教師シスター・ジェイムズを軸に、ある事実をめぐる真相究明をミステリアスに描きつつ、それぞれの揺れ動く感情と心理を表現しつくします。
練り込まれた脚本と役者たちの名演技は必見。これは呻りますよ。
さすがもともと舞台劇だけあってか、室内での会話を中心に進むシナリオは研ぎ澄まされた言葉で埋め尽くされ、人間の深みや多様性、感情や心理、時代背景まで感じさせる驚くべき完成度で全く隙がありません。
そしてそれを演じるためにどれほどの演技力を要求されるのかと気が遠くなりそうですが、それをまあこの役者さんたちは完璧にこなします。
厳格な校長シスター・アロイシアスを演じるのはメリル・ストリープ。
典型的な「ガチガチ頭の保守的で何ものにも厳しいシスター」としてまず登場します。生徒や先生たちも恐れています。
しかし少し話が進むと「実は優しいところもあるのでは」と思える言葉もちらほら。「もしかしたらこの人こそ信用できるかも」と思ってしまうという、鑑賞者はこの厳格な校長について、単純な設定ではない人間の深みをちゃんと感じ取ります。
進歩的なフリン神父を演じるのはフィリップ・シーモア・ホフマン。
この人の顔はこういう役にまさにピッタリ。
優しそうで穏やかそう。または、優しそうで穏やかそうに見えるけど実は変質者あるいは悪者。
この二面性を同時に持つ役者さんです。実際に、優しい役も悪者の役も両方こなしている実績がありますし、鑑賞者は「どっちなんだ。いいものか悪者か、どっちなんだ」と、ずっともやもやいらいら悩ましい思いをすることになります。
しかしながらこの映画は犯人捜しの映画でしょうか。神父がいい人なのか悪い人なのか単純な二分法で判断して解決する類の話なのでしょうか。
そのへんまで含めて、フィリップ・シーモア・ホフマンは演じきっております。
二大巨頭の間に立つ狂言回し的役割を担う本編の主人公シスター・ジェイムズを演じるのはエイミー・アダムスです。
なんという美女。なんという優しさ。なんという心の強さ。
この美しい女性エイミー・アダムスですが、「はて、どこかで見た覚えがある名前だ、だれだっけ、だれだっけ」と思っていると、なな何とディズニーのセルフ・パロディ「魔法にかけられて」 のお姫様じゃありませんか。お姫様、あなた今度はシスターに化けはったんですか。何でもしはりますなあ。
「魔法にかけられて」の時も 「なんて可愛い人なんだろう」と思っていましたが、何のその、美人なだけじゃありませんで、メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンというとてつもない演技派のベテランに一歩も引けを取らない素晴らしい名演技を見せてくれます。
この映画を観たらあなた、この人に惚れますよ。
さてこの映画は「疑い」というタイトルだけあって、その内容はサスペンスフルでミステリーです。
ある事実があり、それについての疑いがあり、 疑惑の解明のための尋問があり、確信と証拠をめぐっての推理があります。
いくつかの見せ場と会話の応酬が配置されておりまして、例えば 日曜ミサでの神父のお話、校長室でのバトルなどです。後半にさしかかるとミステリーらしくちょっとしたシーンにも関わらずその後の急展開に関わる重要なサプライズ・シーンがあります。
このサプライズ・シーンにて強烈な一打を放つのが黒人少年の母親ミラー夫人を演じるヴィオラ・デイヴィスです。
と、まあこのように素晴らしい脚本と名演技でえぐりまくる会話劇でありまして、アメリカ製映画だからといって舐めてかかっちゃいけません。
会話と名演技で見せる深みのある人間ドラマが観たい人に強くお勧めできる名作です。
この作品、二分法での単純な善悪、正義と悪についての疑問符付き問いかけが強く含まれています。
ミステリー仕立てによって、観客は真相解明と善悪の決定を望んでしまうようリードされますが、そういう見方で本当にいいのでしょうか?そういうものの見方そのものへの「疑い」を我々は持たねばならない、と、そんなテーマも内包されたタイトルであるかのように感じさせられます。
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