孤児を支援するパーティに参加した夫婦、ミャンマーの映像の中に、半年前大津波で行方不明になった息子の姿を発見。「息子は生きている」と確信し、藁をもすがる思いで国境封鎖の島へ。
叙情性たっぷりに描く母親の執念と情景。
原題の「VINYAN」はタイ語で「魂」を意味する言葉らしいです。酷い死に方をした怒りの魂が「VINYAN」になると。その魂を鎮めるための灯の場面もあります。
この映画は、失った子を追い求める母親の執念と、人身売買される子供たちの怨念、そしてそれによって貧困や犠牲国家の問題も多少は浮き彫りにするという作品になっております。
さてタイトル、前作「変態村」に続いて「変態島」ですと。
何が「変態島」か。映画もここまで馬鹿にされては辛かろう。さっき知ったんですが「今世紀最大のエロティックサイコスリラー」とか、大嘘を並べたキャッチコピーを付けられていたらしいですよ。変態でもないし、サイコでもないしスリラーでもないし、エロティックでもありません。すべて嘘です。こりゃひどい。
ここまでコケにされる映画も可哀想だし、この宣伝にだまされて観てしまった坊ちゃん嬢ちゃんがいればそれも可哀想です。
「変態村」を見れば判る通り、ファブリス・ドゥ・ヴェルツという監督はアート思考・アングラ思考の強い、それに加えて古いアート&アングラフィルムのオタクであろうことは一目瞭然の人でありまして、それはこの映画も冒頭のクレジットのデザインなんかに如実に表れております。
ストーリーを追うことよりも、しつこい情景描写と雰囲気重視。映像の持つ力をダイレクトに表現すること重視。
えーと、そういうアート思考アングラ思考の映画を、誰でもわかりやすい例で挙げると1920年代の「アンダルシアの犬」でございますね。これ、みんなご存じのブニュエルとダリの実験的短編映画ですが、この手のアート系フィルムってたくさんありまして、その後のアングラ系へと引き継がれたりします。
本作もその流れに含まれるのか、というとちょっと違っていまして、流れには含まれないけど、その流れがもの凄く好きで、オマージュ的に技法を用いていると私は観ております。ですからシンパシーを感じるのであります。
「変態島」を観て真っ先に連想するのはしかし「アンダルシアの犬」ではありません。むしろケネス・アンガーです。
ケネス・アンガーはアングラ実験映画の人でして、ええと、オカルト+オルタネイティブ な感じ。1940年代の「花火」は強烈で、「変態島」のラストにはこの「花火」をちょっとだけ彷彿とさせるショットがありました。
ケネス・アンガーでは多くの人に判りにくいので、野暮は承知でもうひとつ似た感じの映画を持ち出します。「地獄の黙示録」ですね。何が似ているのだと言われればジャングルで奥へ奥へというところ。最初は観ているほうも「そんな奥まで行ったらやばくない?戻れなくなっちゃうよ」とドキドキするんですが、そのうち「はまって」きますよね。もう戻れない感じのまま溶け込んだりします。そんな感じ。
まあ、テーマは全然違うので本気で「地獄の黙示録」と似てるとは思わないでね。
以上、気恥ずかしく野暮すぎることを書きましたが、普通のホラーを期待してこれを見て「変な映画だな、でも気に入ったな、ほかにこんな映画ない?」って思うような方のご参考になれば。ならないか。
世紀の超絶美女エマニュエル・ベアールが大胆イメチェンでもって母親の執念を表現します。母と子の物語にはこの母親の執念というものが必ず出てきまして、しかも常軌を逸していくものが多い。「漂流教室」高松翔のお母さんしかり、「母なる証明」のお母さんしかり、「バイバイ、ママ」しかり、みんな凄まじいです。
母親ってのは これほど強烈な愛を子供に持つものなのですね。永遠のドラマのテーマでもあります。その点、父親ってのは無様なものですなあ。
亡くした子を追う母親の執念、ジャングルの奥地の類型的な原住民の描き方という点では、この作品は「ありきたり」な部分も目立つんですが、その代わりアート描写で乗り切る、と、そんな作品になっております。
「変態村」と「ワンダフル・ラブ」 に見られた洒落っ気や現代的な感覚はほとんど見られません。もともとアート思考があった上に、名女優の出演と多額の制作費で気合いを入れすぎたのかもしれませんね。
2008年ヴェネツィア国際映画祭特別招待作品。
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