メランコリア

Melancholia
憂鬱という惑星が地球に迫る状況で、ジャスティンとクレアの姉妹が対峙する世界と己、絶望と破滅、混乱と秩序、宇宙的規模の小さな心。 ラース・フォン・トリアーが描く世界の終わりはこちらです。深い感銘をもたらす大傑作にして人類が見ておかねばならない映画のひとつ。
メランコリア

ラース・フォン・トリアーがヒトラーに共感すると発言した時に横に座っていたキルスティン・ダンストの表情が印象的だった「メランコリア」は、メランコリアという名の惑星が地球に衝突するそのときまでの、ある姉妹のお話です。

全体は二部構成、一部が妹の「ジャスティン」二部が姉の「クレア」という章立てです。実際にはこれプラス冒頭に8分間のとてつもない短編プロローグが付いているので三部構成かもしれません。

トリアー監督本人は問題発言が元でカンヌを追放されてしまいましたが、主演のキルスティン・ダンストは見事女優賞を獲得、前作「アンチクライスト」でやはり女優賞を受賞したシャルロット・ゲインズブールとふたりで受賞姉妹です。
ラース・フォン・トリアーの作品は女優がひどい目に遭わされることで有名ですが、ひどい目に遭わされても女優の力を内臓まで引きずり出す威力でして、ほとんどの主演女優が高く評価されてきました。
今回のキルスティン・ダンストに関しては、撮影時はどうだか知りませんが少なくとも映画的には、「アンチクライスト」のシャルロットに比較しても酷い目には遭わされておりません。一安心ですね。

監督の発言については、カンヌの姿勢を支持しません。彼は芸術について語っているのであって、政治的発言をしているわけではありません。しかしヨーロッパでナチ擁護はこれほどのタブーなのですよ。芸術の目を持つはずのカンヌですらこれほどナイーブなんですね。

さて映画「メランコリア」の冒頭は先ほどもちょっと書いたとおり約8分間のプロローグといいますか映画俯瞰といいますか短編映画として独立させてもいいような特殊な映像で始まります。
リヒャルト・ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」に乗って繰り出されるこの冒頭、これは凄いですよ。幻想的で美しく、宇宙と地球と姉妹の心と映画全部をすべて表現しています。この部分だけで一本の芸術作品として独立できます。誰だ誰だ「ミュージックビデオみないなもの」とか言ってるやつは。まあ、その通りなんですが。壮大で芸術的な価値あるミュージックビデオは最早美術作品として一級品なのです。
「アンチクライスト」でも、ヘンデルの曲に乗った冒頭のモノクロ映像がとてつもなく印象的でした。「メランコリア」はあれがさらにパワーアップです。壮大な音楽と幻想的な映像でもってジャスティンとクレア、そして地球がどうなるのかをすべて示します。

お話は二人の姉妹の物語。妹のジャスティンと姉のクレア、キルスティン・ダンストとシャルロット・ゲインズブールの女優賞姉妹です。なんという濃い姉妹でしょう。
しかし驚くのはまだ早い。この濃い姉妹にはもっと濃い家族がいるのです。何と母親が「まぼろし」のシャーロット・ランプリングです。しかも妹ジャスティンよりたちの悪い偏屈おばさんです。あわわわとなります。そして何と父親がジョン・ハートです。エイリアンに食い破られたりエレファントマンになったりアフリカに赴任している善き人だったり若い娘に取り憑く悪魔だったりしたジョン・ハートです。今回は遊び人の愉快な親父ですが、あわわわとなります。でもって妹ジャスティンはこの親父さんが好きなのですねえ。その辺の細かい心模様の描写、こういうの見逃してはなりませんね。で、姉クレアの旦那は科学者で惑星についての案内役、演じているのはキーファー・サザーランドで、まあこの役は比較的どうでもよろしいか。なにしろとんでもなく濃い家族です。クレアの息子だけが救いです。
家族だけではありません。結婚披露宴に来ている面々も濃い連中ばかりです。ジャスティンの上司は「奇跡の海」の旦那だったステラン・スカルスガルドだし、奇人顔ウド・キアもいます。「ファニーゲーム」USA版の人殺しブラディ・コーベットまでいますよ。濃すぎますねえ。映画賞のパーティ会場かと思うばかりのとんでもない結婚披露宴です。

さてそういうわけで蒼々たるメンバーの第一部は妹ジャスティンの結婚披露宴で、最初楽しげに登場するジャスティンは披露宴が進むにつれて憂鬱になってきます。
もともと若干変わり者のジャスティンですが、それを抜きにしてもこの披露宴に付き合っている観客だって同じように憂鬱になってくるように非常に精密に作られた第一章です。
夜から夜中から明け方まで、まるで白夜の狂宴のようなパーティシーンです。気まずさや居心地の悪さといったリアリティと、中世幻想文学のような空気が完全に同居しています。
パーティ開始時にはあったさそり座のアンタレスがパーティ終了時には消えてなくなっています。ファンタジックに言うならば、アンタレスは惑星メランコリアになったのです。

第一部ジャスティンは、ジャスティンの憂鬱を描きます。彼女は社会生活不適合者であり、まともな社会は彼女にとって最悪に居心地の悪い世界であり、嘘くささと絶望で出来ています。姉クレアはここでは「まっとうな社会適応人間」として描かれます。

第二部クレアは、クレア一家のもとに、鬱病をこじらせたジャスティンが世話になる話です。惑星メランコリアに恐怖するクレアは、ここではピュアすぎるあまり世界の絶望を受け入れられない不適応人間として描かれます。

世界が平常時に絶望するジャスティンと、世界の絶望時に恐怖するクレアが対比として描かれ、ここを非常に単純に見ると、変わり者とまともな人の対比であると見えるかもしれませんがそうではありません。両者は対等に絶望し恐怖する存在であって質的差異は全くないのです。クレアも相当に病んでおり、彼女の人格を形成しているほとんどの部分が欺瞞と洗脳で出来ているということが明らかにされています。
ジャスティンを変なやつ、クレアをまともな人、と見えてしまう人はそういう部分が見えず、クレアと同じく相当病んでいる人であると断言しときます。
ちなみに私ども映画部の面々は、ジャスティンのほうがよほどまともに見えるという相当病んだ人間たちで形成されています。

「メランコリア」全体像については、メランコリーの具現化という見方と、ディザスターにおける心的表現という見方の両方あると思いますが、どちらが正しいというような回答はないと思われます。どちらでもいいとも思われます。

世界というか宇宙というものはインナースペースとアウタースペースの二種類で出来ています。内宇宙と外宇宙です。
内宇宙というのは精神のことで、表皮という薄い膜を隔てて外宇宙とぎりぎり接しています。表皮を挟んで外宇宙と内宇宙があるわけですから、表皮がどう蠢くかによって内宇宙と外宇宙は容易に入れ替わります。内だと思ってたら外だったとかそんな感じです。さらに表皮は薄いですから時としてこれが破れます。そうすると内宇宙がもにょもにょとはみ出してきて外宇宙と混ざりあったりしてしまいます。この状態を発狂状態といいます。
混ざりあった部分が表皮近くにあるうちはいいのですがこれが膨張を始めると地球を飲み込んでしまいます。ここまで来ると内宇宙が外宇宙に影響を与え始めます。惑星がぶつかったりとか、そういうことが起こります。

さて、20世紀末を1999年だと勘違いしたのかどうなのか、1999年に世界が滅びると言いまくってた人がたくさんおりました。
昔から「世界が滅びる」願望を持っている人は多くいて、その人たちのほとんどが「世界の滅亡」を単純化して理想化して語っていたことを思い出します。惑星の衝突にしろ世界戦争にしろ、なんだか一発で世界が滅びるようなことを言うのですね。映画のラストシーンじゃないんだから、「世界の滅亡」がそんなに上手く来るわけないでしょうが。もし世界の終わりが来たとして、実際にはちびちびと、だらだらと、じわじわと、最悪の状況が何年も何十年も下手すれば100年も1000年も、「頼むから一発で終わってくれ」という願望をはねのけ、どろどろ状態が続くのですよ。そんでもってほとんどの人が「今が世界滅亡真っ直中」ということにも気づかず、のほほんとアホ面下げて暮らしてるんです。世界の滅亡っていうのは実際にはそんな感じです。あれ?じゃあ今か?

とにかく一発でどかーんと世界が滅びるというのは、世界終焉願望を持つ人間にとっては最高に理想的な終わりなわけです。そして世界終焉願望を持つ人間の多くが実のところ滅びるのは世界ではなく自分のほうであるということを無意識に感づいています。自分が孤独に滅びるのが辛すぎて世界もろとも滅びることを望んでいるわけです。
世界に絶望しているわけですから、絶望していない人間が絶望に気づくほど世界が絶望に満たされると嬉しくなってしまいます。そういう世界こそが求めている世界であり、心の底から安堵できるのです。絶望が具現化し巨大惑星となって地球に衝突するなんて、これほどのしあわせがあるでしょうか。究極のハッピーエンドです。

で、だからといって、この映画は鬱病にとってのハッピーエンドというだけでは済まされません。そこで済ませれば「ジャスティンは変わり者の鬱病患者で世界終焉願望の持ち主。クレアは普通のまともな人間でおどおどするかわいそうな人」という薄っぺらな感想で終わってしまうということですね。

さてクレアをまともな人間と見えてしまうのはどういうわけでしょう。大金持ちで文化的で夫と子供に恵まれ優しくてピュアです。彼女の成分は常識で作られています。そしてその常識に疑問を挟むことができません。彼女の世界には惑星が衝突するというような馬鹿馬鹿しい世界はありません。そんなものは「想定外」です。彼女の絶望と恐怖は内部からでなく外部からやってきます。常識を形作ったのも幸福感も怒りも優しさもすべて外部からやってきたものです。
そのことを「メランコリア」では慎重に綿密に描いていきます。

人は得てして大きな災難に出会ったとき、その災難を過小評価する方向に心理が働きます。大きすぎる災いが想像力を超えているため正確に判断できず過小評価して日常に埋没するという心的防衛です。おっと今原発事故のことを想像しましたね。いいでしょう。
その流れで言うと過小評価ともうひとつ、自分が経験的に知っている矮小なものに落とし込んで安堵するという心の動きもあります。惑星が衝突したり原発が都市部近郊で連鎖爆発するといった想像を絶する災害に対して、飛行機事故や小さな公害問題にすり替えて心理的に防衛し安堵するわけです。だからこそ危機を認識している人に対して攻撃的になります。封印している恐怖を開けっぴろげに晒している正直者が憎くて仕方がなくなるわけです。
クレアが遭遇するのは惑星衝突ですから、大きすぎる災難どころではない災難です。ですので矮小化などはできず、そのかわり日常を死守しようとします。死の直前ですら「日常の素敵な行為」にしがみつきます。それを暴かれると「憎くて仕方がなくなる」のです。
放射能汚染地区で普通に日常を送るふりをすることによって精神的破綻を逃れようとして実は破綻している人たちと同じです。

このクレアの病理こそが現代の病理であり、ジャスティンが絶望する世界を構成する主な部品です。
ジャスティンが違和感を感じる世界はクレアにとって安堵の世界であり、ジャスティンが安堵する世界はクレアにとって違和感を感じる世界なのです。この二つの世界は別々の世界ではなく同じ世界に同時に存在している世界です。だから両者とも世界から抜け出ることが出来ません。

もし「メランコリア」がある個人の憂鬱を宇宙的規模で描いた映画なのであれば、その「ある個人」とはジャスティンだけでなくクレアも含まれると考えられます。ジャスティンとクレアは対立する二つの人格ではなく、もともと一つの人格の中の分裂する成分なわけで、平常時の絶望と絶望時の平常は対比ではなく対になっています。念のためですが、もちろんこんな考えは映画を観ての単なる感想なのでそれがあってるかあってないか、監督の意図なのかどうなのかは知ったことではありません。

で、続きですがそのような見方を主軸にすると、なんと、60年代から始まったニューウェーブ文学のようなテーマと共通する部分が多いことに気づきます。違和感の世界感、もしかして「脱走と追跡のサンバ」(筒井康隆)を思い出しましたか?
ちょっと脱線しますがついでに「エディプスの恋人」を思い出してもいいかもしれません。壮大な宇宙的規模のオルガスムを描いた同作は、壮大な宇宙規模の絶望と崩壊を描いた「メランコリア」と何となくつながりが感じられます。
そういう観点から見ると「メランコリア」が如何に正統派なSF映画であるかと感嘆しますよね。・・ちょっと無理があるか。無理矢理過ぎるのでここらは読み飛ばしてくださいませ。

てなわけでそういう話はともかく、「メランコリア」を観てずっしーんと来る人は絶望や憂鬱といった感情に身に覚えがあり、そのことについて深く悩んだり考えたりしたことがある人なのだろうなと思えます。
そうじゃない人は「クレアを普通と思う」どころか、この映画自体にのめり込めないと思うんですよね。

あるいはもっともっと普通に素直に観る人にも深い感動を与えるでしょう。
ジャスティンを惑星に影響を受けやすい人として受け入れ、素直にお話通りに「最後の時をどう迎える」という流れで見ていってもたいへんよく出来ています。深読みなんかしなくても十分な威力がこの映画にはあります。子どもの使い方もあざとくなくしつこくなくちょうどいい案配です。
実際に、トリアー作品があまり好きじゃない人も「メランコリア」には深い映画的感動を覚えるんじゃないでしょうか。どうでしょうか。

いやまあなんにしろ「メランコリア」は凄いです。いろんなシーンが脳裏に焼き付きます。まいりました。

ラース・フォン・トリアー監督は映像美や映画技法も凄いですが、普通のドラマ演出という部分でも抜きんでた才能をお持ちです。
この人の作品が強烈だったり重々しかったり衝撃だったりするのは、テーマだけでなくそこで描かれるドラマの部分がめちゃくちゃよく出来ているからに他なりません。
「メランコリア」でも、登場人物の細やかなシナリオや演出は目を見はります。夫マイケルとのやりとりや「リトル・ファーザー」と呼ばれている執事の動き、家族との関係、クレアの受動的な内面を鋭くえぐるわずかな会話、ジャスティンの変貌など書き出したら止まらないほどの細やかなセリフと演出で満ちています。
この綿密さがドラマにリアリティと説得力をもたらし、惑星衝突という馬鹿馬鹿しい物語に心理的深みを与えるのでありましょう。

「メランコリア」というタイトルを始めて見たとき、とっさにアンドレイ・タルコフスキーを思い出しました。
タイトルの感じが似てる(「ノスタルジア」かよ)とか、「アンチクライスト」のクレジットでタルコフスキーに言及していたとか、世界の終わりを個人のレベルで描いている(「サクリファイス」)とか。
でも「メランコリア」を観ると本気で「サクリファイス」のトリアー版という確信を持つに至ります。ええもう。なにからなにまで。なんだかタルコフスキーのファンにもトリアーのファンにも殴られそうですが、マニアたちの反発を恐れずに言い切ってしまいますと、ラース・フォン・トリアーはかなりのレベルでタルコフスキーの後継者を自覚してるんではなかろうかと(ボカッ、ガスッ、ドスッ←マニアに殴られている音)
映像美から想起されるドラマ性やなんかも(ざくっ←切られた音)
ついにSFで(ごろん←斬首)

*

[追記] 長文書きすぎたせいか息が続かず、感想文の最後は逃げで終わっていますが、「サクリファイス」との驚くべき共通点についてはマジな話です。
大体お話の構成も似ています。前半にパーティシーンを持ってくるのも同じです。主人公の感じる平常時の絶望と異常時の高揚も似ています。「メランコリア」のあと、「サクリファイス」の感想文も書いたので読み疲れしていない方はぜひどうぞ。
それと、この年のもう一本の最強絶望世界終末映画「ニーチェの馬」も。こちらは終末における日常への固執、マジ終わりってときにルーチンに埋没する哀れな人間を描いた壮絶な作品です。

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  1. ピンバック: 孤島の王 | Movie Boo

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