ずっと待ちわびていた「Peace」をやっと観ることが出来ました(→「Peace」を心待ちにする)
香港国際映画祭にて最優秀ドキュメンタリー賞受賞、Visions du Ree 映画祭でBuyens-Chagoll 賞受賞、東京フィルメックス観客賞受賞作品。弱者と介護と町と老人と人々と猫猫を追うドキュメンタリー、明確な意図や構想を練らず淡々と観察するように撮り続けて編集するという想田監督による「観察映画」技法の最新作です。
「選挙」では選挙を、「精神」では精神病院を描いてきましたが本作に登場するのは想田監督の奥様のご両親。介護の仕事をされていて特にお義父さまは野良猫を愛でています。
もともと映画にするつもりなく日常の記録としてビデオに収めていたお義父さまと猫たちを見ているうちに「平和と共存をテーマにした短編を撮ってほしい」という断ろうとしていた企画にぴったりフィットするんじゃないかと思いつき映画を前提とした撮影を続行したのだとか。
想田監督の観察映画技法では「最初にテーマを定めない」というのも大きな課題の一つで、テーマなんてものは映画制作の過程で徐々に明らかになってくるものであるという考えに基づいています。
これは音楽のインプロヴィゼーションやアートのオートマティスム、文学の「作家の認識外の価値」などと同様のアプローチです。
テーマを意識せず、目的を持たず、淡々と観察するように記録されていく映像群ですが、撮影・編集の過程で、自ずと映像作家・想田和弘の内面や映画のテーマが形作られていきます。これは作家が意識してようとしていまいと関係なく滲み出てきます。その滲み出てきたものには作家の個性と特異性と、そして尚かつ普遍性が伴います。
本作「Peace」ではこの普遍性が特に目を引きます。中心人物である柏木氏の庶民としての普遍性、猫社会という人間社会の縮図的形相、決して「特殊な人々」ではない普通の人々による寛厚が生への魅力を感じさせるためです。
多くの観客がこの映画を観て優しい気持ちに満たされるでしょう。同時に、その中に社会の歪さを感じ取り、平和な社会とは何か、正気の社会とはどういうものか、共に生きるとはどういうことかといった複合的な感情も揺さぶられるはずです。この複合的観念こそが、想田監督の個性でもあります。
じつは「選挙」「精神」を観た当初は「観察映画」という監督の方法論を知らず、そのテーマ性が強烈なあまり「テーマが多く散漫な印象も受ける」といった間違った感想を持ってしまいました。逆に言えば、それほどテーマ性が滲み出ていたと感じ取ったのですね。
特に「精神」には多くのテーマが内包され、映画一本分の尺では全然足りないほどのエネルギーを感じましたし、同時に、監督個人のものの考え方に共感する事に対して興味が湧きました。
簡単に言うと「この監督は東大出のエリートでわしとは住む世界の異なるお人じゃが、同類と言えるものの考え方をしておられるぞ」と、そんな風に感じたんですね。
で、それが「Peace」で爆発。それそれそれそれ。これこれこれこれ。と、あまりの共感ぶりに感動すら覚えました。「Peace」を絶賛する鑑賞者の多くが同じように「それそれそれそれ」「そうそうそうそう」という思いに包まれたはずです。そしてこれが作品から滲み出るテーマと普遍性です。
さて内容です。どこにどう共感したのか、どこにどう感動したのか、言い始めればきりがありませんが観た直後にTwitterでメモっといたのでそれを元にご紹介します。
・人々、猫猫、煙草。老人、社会、個人。抜粋、編集見事。
「Peace」に登場するのは庶民たちです。岡山の町、繁華街やちょっと外れた国道沿い、小さな町などが登場します。そこにいるのは介護の仕事をする柏木氏、靴を買いに行く人、自宅療養する人、奥様、いじめられっ子、医療従事者たち、子供、大人、老人。庶民です。弱者と呼ばれる人もいます。金儲けではない価値観があります。戦争に行った人もいます。人々を取り巻くのは社会です。社会にいるのはそれぞれ個人です。猫もいます。猫たちの社会もあります。
時に短いショットで景色が挿入されます。こういう短いショットが実に効果的。多分膨大な量の素材があると思うのですが、作家が何故このショットをこの尺でこの場所に挿入したのか、それは厳密には作家でさえ明確な答えを持っていないかもしれません。
タイトル「Peace」は煙草の銘柄です。Peaceを吸うのは最早老人ばかりですが、私も昔はPeaceを吸う姿に憧れたものです。そこには大人の貫禄と余裕と贅沢がありました。今はそれに加えて悲哀すらあります。
・終盤のある二つのシーン
終盤のいくつかのシーンのうち、監督のカメラの前に神が舞い降りたとしか思えない奇跡のシーンがふたつありました。テーマを定めずもちろん仕込みもせず淡々と観察するように撮り続けるドキュメンタリーにおいて、これほどドラマチックで衝撃で素晴らしいシーンを撮れたことは驚愕です。きっと監督も撮りながら強い手応えを感じたのではなかろうかと思います。これらシーンを終盤の重要なシーンに編集したことからもそれが感じられます。鳥肌が立ちます。
・年寄りの優れた価値観が随所に
老人や弱者が登場映画が好きなんです。で、老人を単純化したり、若い価値観で演出するのは大嫌いなんです。
見習わなければならないことのひとつに、身だしなみやお洒落があります。お出かけする時やカメラの前ではシャツを着てネクタイを締めます。これは自分を律すると同時に他人に不快な思いをさせない気遣いです。
私の知り合いのおじさん(昭和一桁生まれ)も、家ではだらしない恰好でテレビを見ていたりしますが散歩するときには可愛いシャツを着てひょいと帽子を被ります。町内の飲み会のときはサングラスして格好つけます。お洒落です。
だらしない恰好でだらだら歩いてる若造はこういう年寄りの身だしなみを見習わなくてはなりません。
お金で動きません。価値観は金儲けでも資本でもありません。「儲からないのになぜやるのか」と不思議に思う人はもうすでに歪んだ価値観に洗脳された資本主義の奴隷です。
戦争を経験した年寄りには平和主義者が多いです。そして平和とは単に戦争状態でないというだけではなく、時空にゆとりがあるということを判っています。そして何かが悪であるという傲慢はありません。例えば非合理や無駄が悪であるという神経症的価値観には全く影響されません。だから煙草を吸います。
・カメラを意識した自然
観察者・撮影者である想田監督はカメラ片手にどしどしと人の中に入っていきます。遠くから野鳥を観察するような観察ではありません。実は監督は当事者でもあるのです。
カメラを向けられた人々は否が応にもカメラと想田監督を意識します。そして影響を受けます。監督の人柄のためと思われますが、この撮影から影響を受ける人々が極めて自然に己を語ります。
これは「精神」でも強く感じたことなのですが、カメラが回ってなかったら決して語らなかったであろう言葉を引き出す力が想田監督にあるようです。
撮影を意識して出てきた言葉、これは不自然なのではありません。別の形の自然なんです。
「ゆきゆきて神軍」にも共通する撮影者と被写体の新しい関係です。
・煙草
Peaceを愛用する橋本氏が語ります。「煙草をやめたら、空気だけ吸って生きて、そんなの意味ない」
生きるとはどういうことかを端的に示されます。空気吸って物食って寝て起きたらそれが生きると言うことか。違いますね。生きるとはどういうことか、無駄な物が如何に重要かわかっておられます。
この橋本氏の言葉を、皆胸に刻んでください。
・平和。共存。
陳腐と思ってはいけません。特に今の日本にとって、平和や共存といったテーマはあまりにも重いです。
・猫
個人的事情ですが、「Peace」を観る前日、我が家の女優猫とめが入院しました。ちょっと具合が悪そうと思って受診したら肝臓が末期的でした。
2年近く前、とめの姉妹であるみっけという猫を亡くしたばかりです。
猫飼いにしかわからぬこの悲しみ、現実を受け入れられない絶望感、正直いって猫の映画を観たら涙で霞んで何も見えないんじゃないかと思っていましたが、逆に力をつけられました。
死に対する諸概念についてはいろいろと考察もあるので割愛しますが、「Peace」に登場する猫社会を見ているとやつらの強さを思い知ります。ただ可愛いだけ、ただ不憫なだけの哀れな動物ではありません。我々は力をもらいます。
ということでとりとめなく「Peace」の感想文でした。
ご覧になれる機会があれば是非どうぞ。今の時代だからこそこういうのをお勧めしたいと思います。
[追記] 2012年7月28日 「Peace」のDVDが発売されました。それを記念して、このページにAmazonから持ってきた画像を付けました←そんだけかよ
DVDには、138分に及ぶ映像付録が付いています。
“Peace” への2件の返信