何やら「アクト・オブ・キリング」という映画が凄いらしい、想田和弘氏がどこかで観てきたらしくTwitterで伝えたのが知ったきっかけでした。
どうもこの映画はただ事ではないようだと観てきた想田氏の並々ならぬ壮絶感を感じ取れまして、それで興味津々で公式ウェブサイトを見てみますと、そこにどどーんと現れるグラフィックにいきなりガシっと心鷲掴みされのけぞります。
何か知らんがこのスチールだけで十分です。このインパクトは何事か。この美しさと薄ら寒さは何事か。傑作間違いなし。内容も知らず確信します。
その後随分経ってこの映画が山形の映画祭で上映されることになりました。その時は確か邦題がついて「殺人という行為」だったかな、そんな邦題で上映されました。山形まで観に行こうとしましたがいろいろあって断念、でも話題は膨らむ一方だからいずれ上映するであろうと、待つついでにもうちょっと待つことにしました。そして待った甲斐があり、2014年5月に公開されることになったわけです。
1965〜6年にかけてインドネシアで起きたクーデター未遂事件を発端とするその後の大虐殺、いわゆる9.30事件の実行者たちを捉えたドキュメンタリーです。
監督のジョシュア・オッペンハイマー氏はいわゆる映画のために映画を撮る人と言うよりもっと明確にジェノサイドと精神の研究家もあります。その監督が思いついた「アクト・オブ・キリング」の骨子は、虐殺加害者たちに虐殺を再現した映画を作るからと出演を依頼するというものです。この設定からしてもうかなりぶっ飛んでいます。そして映画の目的のひとつは、インドネシア世論を動かし政治を変えることでもあります。何を偉そうに、と思うかもしれませんが、アジアの田舎国は外圧の一つや二つなければ何も変わりません。
インドネシア 9.30事件
この大虐殺については諸説あるようです。あまり詳しくないので諸説とやらをあれこれ調べてみましたが、どうやら諸説と言うこと自体が胡散臭いことがわかります。たとえばスカルノ大統領を「共産党と深い関係があり」などという作為的な記述などにも出くわします。また「虐殺があったとされる」というようなもみ消しに荷担するような記述にも出くわします。このように明確にせず諸説ということにしてあやふやにしないと具合の悪い国が出てくるということです。日本なんかもその筆頭です。
チリのクーデターを思い出してください。あの時の日本政府(社会党も含めて)がどういう恥知らずな態度を取っていたか、それと同じことがこのインドネシアの事件に当てはまります。
この事件に関してはスカルノ大統領の第三婦人であり事件の当事者でもあったデヴィ夫人の言葉に耳を傾けるべきです。最も信頼できる日本語の語り手はデヴィ夫人以外にいません。
ナショナリズムのなれの果て、野蛮人と化した暴徒が「共産主義者を殺せ」と大合唱、殺戮に走ります。今の時代は「対テロ」で同じようなことが起きていますが、「テロ」にしろ「共産主義」にしろ、わけのわからないお題目の刷り込みという洗脳の手段を考えついたやつにノーベル洗脳賞を与えるべきです。これほど世界中で効果を発揮した例はありません。そして驚くことに未だにこの洗脳の残りカスはのうのうと生きていますし糞ネットで幼稚な戯言を散見できたりします。
虐殺の実行者が英雄で支配的立場にいる状態
インドネシアの9.30事件で虐殺を担当した人間は、その実績により英雄とされ、そしてそのまま良い身分を与えられ安泰に暮らしています。政府主導の大虐殺は正式にその存在を認めていなかったようで、60年代の事件は総括もされず継続していると言って良い状態です。戦犯や731の残りカスが政治家や資産家として君臨し戦争の総括を何も行わずだらだらと同じ過ちを繰り返す日本と構図が全く同じですね。インドネシアの現状を他人事のように見ていてはいけません。
登場人物の魅力
この映画、登場人物たちの魅力は抜群です。この場合、魅力と言っても不快感を含めます。不快感もまた魅力のひとつです。
「アクト・オブ・キリング」の主人公と言えるのは当時虐殺を担当したアンワルです。
「あなたが行った殺人を教えてください。そして、映画にするので出演してください」
映画監督にそう伝えられはしゃぐアンワルです。嬉々として武勇伝を語ります。
その他、まるで作られた脚本であるかのような役割のヘルマン、まるで作られた脚本であるかのような重要な言葉を吐きまくるアディ、まるで作られた脚本であるかのようなとてつもない立ち位置にいるスタッフのスルヨノ、これほんとにドキュメンタリーかと思わずにはおれないキャラクターたちです。
アンワルは登場してしばらくは身の毛もよだつ不快感を身にまとった男です。ですが恐ろしさの中に格好をつけるお茶目さも持っています。無邪気にはしゃいでいますし、おぞましいのですが可愛いところも感じずにはおれません。映画を最後まで見ると誰しもが残酷さに身を包まれる感じを受けることでしょう。この彼の存在はあまりにも大きいです。代償も大きいです。その分皮肉なことに映画的魅力にも満ちています。彼を取り巻く残酷さはもちろん彼自身も取り込みます。その残酷さにゲロまみれです。思い出しても嗚咽かえづきかわからないものが胃の奥から持ち上がってきます。
ジョシュア・オッペンハイマー監督はとんだサディストです。
映画を見終わって、嘔吐感とおえつ感と涙に暮れながら「この男にこれほどむごい仕打ちをしてよかったのか」と、大変に複雑な心境を我々観る者にもたらします。考えと感情がもつれ合い、簡単に結論を出せぬまま重みだけがのしかかります。
被害者の身内であったスタッフのスルヨノも感情移入させまくりで観客は激しく打ち続ける心臓の鼓動を押さえることが出来ません。
旧友アディの冷静な物言いに至っては脳味噌沸騰です。ある部分でとても冷静で、知性ある男です。だからこそ沸騰します。
新聞社の男イブラヒムの言葉でまたもや吐き気に襲われます。権力者に擦り寄る御用新聞であると同時に他人の生死を操る神気取りの大物、現代日本の大手マスコミと同等の悪辣なる魂の持ち主です。
そして節々で見せる芸人ヘルマンの達者な芸。その芸に観る者は若干救われますが救われたと思ってるのは勘違いで襟首を掴まれ演技と人と良心と事実と虚構の泥沼に沈められます。
観てない人には何言ってるのか判らないかもしれませんね。こういった面々がアクの強い個性を発揮しまくります。
ゆきゆきて、神軍
この映画の攻撃性は歴史に残るレベルです。特に日本人である我々にとってはサルトルの嘔吐感に襲われ日本という国を洗い直し問いただす必要に迫られる暴力的なまでの現実を突きつけられます。
社会における人間とはなんぞやとまで思いを巡らします。感情はどこから来るのかと呆けます。
「アクト・オブ・キリング」は「ゆきゆきて、神軍」に匹敵します。こう言うと事の凄さが観ていない人にも少しくらいは伝わるでしょうか。
大虐殺に関与していた日本含めた西側諸国はこの件に大いに向き合わねばなりません。知らぬ存ぜぬは通用しません。いえ、私も知りませんでしたけど(>_<)
狂気の映像美
この恐るべきドキュメンタリー映画を、ドキュメンタリー映画を越えて歴史的名作映画へと昇華させる大きなポイントが、随所に挟まれる幻想的なシーンです。
ドキュメンタリー映画の中でこのような美しいシーンがどのように登場するのか観る前はさっぱりわかりませんが観ていてもぽかーんとなります。時々挟まれる奇妙なダンスシーンというか狂宴というか映像美シーンの意味は重要です。
惚れ惚れするような美しい構図、目を奪うドラグクイーンやダンサーたち、自然と人工物、風景と原色、「アクト・オブ・キリング」の映像美のシーンは狂気へ誘う芸術的シークエンスとなっています。
最後のほうではあるみすぼらしい恰好の男が、ある一言をかけてある人物にあるものを渡すシーンがあります。
これまでの一見無意味な芸術的断片は、このラスト近くのクライマックスでこれまで描いてきたドキュメンタリー部分との完全融合を図ります。この瞬間のために周到に張り巡らされた異質な断片が一気に収束するんですよ。
片やかつての殺人兵隊長の心的崩壊、片や幻想シーンの逆接的クライマックス、これらが観る者に襲いかかります。
またもやのし掛かる嘔吐と嗚咽です。
これはいったい、何たる仕打ち。
事実を身に染み込ませるにはこれほどの苦行を必要とするのかと、そんな案配で完敗です。
社会に影響を及ぼす映画
映画の衰退が語られる昨今、映画に社会を動かす力があるのか、映画というか、芸術の存在意義を問われます。
ということで勢いと感情だけでだーっと感想書きましたが見た直後にあれこれあれこれと言っていた多くのことを書き切れず無念。サイドメニューにデヴィ夫人の話や監督インタビューを載せてるサイトも挙げておきましたのでぜひお読みください。
※ 本稿の画像は公式サイトより引用しました