ブロニスワヴァ・ヴァイス
ジプシーなのに文字に興味を持ち詩を綴るパプーシャと呼ばれる女性ブロニスワヴァ・ヴァイス(1910-1987)の伝記的な映画です。ですが監督は「伝記的映画ではありません」と明言。つまり、伝記映画みたいに見てほしくはありませんってことです。わかります。でも説明するときは仕方ありません。
ひょんな事からジプシーたちと2年間暮らした詩人イェジ・フィツォフスキが彼女の才能に気づき出版に漕ぎ着けたことで、ジプシー初の女性詩人として有名になります。しかし、ただ有名になりました凄いですねよかったよかったといった物語ではまったくありません。
第二次大戦前夜から戦後、70年代までのポーランド現代史をバックボーンに、ジプシーたちがどういう人たちで、どんな目に遭ってきたかというジプシー史も捕らえます。ジプシーの暮らしと掟と性質が深く絡みます。パプーシャの伝記を通して、ジプシーそのものを冷静にかつ鋭く描いた映画にもなっておりますね。いろいろと深く考え込まされます。
もうひとつこの映画の大きな特徴は何と言っても映像の美しさです。あまりにも美しいシーンの連続に圧倒され飲み込まれるでしょう。
パプーシャ
パプーシャの愛称を持つブロニスワヴァ・ヴァイス(1910 – 1987)はポーランドのジプシーの子として生まれてやがて文字に興味を持ち詩を書く女性となります。イェジ・フィツォフスキが彼女の詩を紹介したことで有名になりますがジプシーから追放され晩年は孤独に生きたそうな。
大袈裟な脚色を極力避けた描写の中に、ときどき乙女チックなシーンも交えます。ほんのときどきですよ。
なんのかんの言っても本作はこの女性を描いた映画です。
この映画は何よりも“詩を創造する”ということでコミュニティの規範を越境し、
そのために多大な代償を払った女性の物語です。
人生の最後の最後まで、自分自身に忠実であり続ける勇気を持った、
偉大なる人物についての物語でもあります。
監督メッセージ | 『パプーシャの黒い瞳』公式
美しい映画
まずは何と言っても映像の美しさにやられますね。とても美しいカメラワークです。ほれぼれする景色の描写に留まらず、森や町、人々の振るまいや室内シーンにいたるまで、あらゆるシーンが美しく切り取られ、映画一本美術作品のような佇まいです。正直、美しすぎて「ちょっとやりすぎやで」と思うほどです。
映画の構成
映画全体は流れるストーリーではなくて、年代ごとにばらばらに登場します。最初はパプーシャが生まれる1910年、次はすっ飛んで1970年代のコンサートシーン、そのあとは戦後のシーン、かと思えば戦前・戦中の時代と、めまぐるしくというわけではないんですが、飛び飛びに描きます。各時代のシークエンスはそれぞれしっかりしているのですが、最終的にというか、映画全体の中で特別大事な中心的時代っていうのはありません。すべてを並列に描きます。ですので、大袈裟なドラマチックさを期待してはいけませんし、そのようなタイプの映画でもありません。とてもクールな編集です。でも全体を見終わったら、長い年月を感じますし、じわじわとドラマチックさも感じます。
ひとつだけ、構成における罠を貼っていて、ここだけはちょっと観る者への挑戦というかサービスというか、そういうのも感じます。
つまり最初のコンサートシーンです。晴れやかな舞台に呼ばれるパプーシャを描きます。このシーンを最初に持ってきたことで、観客はこう思うでしょう。「いろいろあって再びこのシーンが登場して、報われて華やかな世界に身を置くラストに繋がるのね。素敵。ハート」罠ですよ。
社会政治的な映画でも、民族学的な野心を持った映画でもありません。
私たちは、創造することの勇気について、それに伴う孤独と痛みについて、
さらには報われない愛情について、そして人間の幸福について描いたのです。
監督メッセージ | 『パプーシャの黒い瞳』公式
監督はこう語っていますが、それでもどうしても社会政治学的な部分や民俗学的な部分や、それから社会心理学的な部分、精神分析的なる部分にまで興味は広がります。これは仕方ありません。これは癖です。ですので続けます。
ジプシー
さてジプシーです。この映画ではジプシーを描きました。しっかり描きました。ジプシーたちの暮らし、考え方、現代史、肯定的側面、否定的側面、美しい映像美の影で優れたジプシー描写が満載です。これにより、ジプシーを超えた普遍的側面についての考察までも喚起されますし、さらにもっと普遍的にジプシー気質をちょっぴり持つ人の精神分析的考察までも喚起されます。つまりボヘミアン、ボヘミアニズムについてですね。そういったいろいろにも想像が広がります。
自由人・音楽
肯定的側面です。彼らの音楽の何と素晴らしいことでしょう。映画中、何度も演奏シーンが映し出されます。大変よろしいです。とても好きです。たまりません。
定住せず、旅する人々です。音楽を奏で、煙草を飲み、ウォッカを飲みます。彼らは外の世界の常識と無縁です。
否定的側面もきちんと描きます。外の世界の常識から自由なジプシーは内なる常識には厳格です。掟があり厳しいルールがあります。これを破ると追放されます。殺すことも厭わないかもしれません。そういう意味で、ふわふわと「自由」なんて言葉を使うことはほんとは憚られます。
定住せず、旅をします。基本貧困で、腹が減ったら盗みを働き、詐欺のような手口で金品を得ます。芸能の押し売りもやらかすかもしれません。外の世界の常識とは無縁です。
彼らの生き方を制限するというのはどういうことか、人間は生き方を自分で決めてはいけないのか、どうでしょう。あれこれ渦巻きます。
ボヘミアニズム
ジプシーの生き方を発祥とするボヘミアン、ボヘミアニズムというのがあります。多くは芸術家や自由人を指します。以前に書いたのでそのまま引用しますが。
「気ままで思想信条に背かない哲学的生き方をしているアウトサイダーで芸術家で他人の目線なんぞ気にもとめない自由人」ということに加えて「他人に迷惑をかけて好き放題やらかして酒飲んで煙草吸ってドラッグやって思想哲学に埋没している変人で乱れていて犯罪者で社会生活不適応者のただのアホ」ということでもあります。
ラヴィ・ド・ボエーム | MovieBoo
世の中にはジプシーと同じように生き方を制限されることをとことん嫌う傾向を持つひとがいます。しかし制限されることに喜びを見いだすひともいます。現時点で世界は制限されることに喜びを見いだす人が作り上げたシステムで成り立っています。
旅する人類
もともとアフリカで生まれた人間は、長い旅をして各地に散らばりました。旅の途中で留まる人たちが民族となり国となりました。そういう人たちのシステムですから制限を好む傾向にあるのは当然かもしれません。しかし人間の旅はまだ終わっておらず、旅するひとたちというのがまだおります。でも減ってきています。人間の旅は終わりなのでしょうか。もしかしたら、旅の終わりは人間の終わりなのかもしれませんよ。
旅する動物人間です。ジプシー的な気質は精神内部の奥底に潜んでいるはずです。顕在化する人もいればしないひともいます。
ひとつ普遍的な例をお話ししますと、芸術芸能文芸文化の世界なんてのはボヘミアンの巣窟です。若い頃ボヘミア気質満開で芸能活動に勤しんだあげく、結婚して子供も出来たので「いつまでもこんなふわふわしたことやっててはいけない、きちんと就職して働こう」と決意して自由を捨てる男とか、そういう人もいました。その男は決意してまじめに働きましたが、人よりジプシー気質が激しいためか、ストレスが尋常ではありませんでした。背広を着て出かけるたびにストレスが溜まり、結果酒に溺れ、家族への暴力という形で発散するようになります。人によっては鬱症状が出てきたりギャンブル依存になったりします。
生き方を制限されるあるいは自分で制限するのも含めますが、これはある種の人にとっては死の苦痛に匹敵します。犯罪者気質の悪いところが顕在化したりもするかもしれません。
こうした例は普遍的で、人間が本来持っている旅の気質に関わるのではないかというのは単なる私の説というか妄想なのでありますが、それは自分がその気質を強く持っているからこそ思うんですよねえ。
自分の例では煙草に関してよく思います。Moviebooでもよく吠えていますが煙草を規制されるのが嫌いで、この傾向が社会に強まりつつある中で犯罪者気質が大きくもたげてきている自覚があります。つまり以前なら周りに気を遣ったりマナーに気を配ったりしていたのですが、近頃は「そこまで追い詰めるならやってやる」と悪者への傾倒がはっきり見て取れます。あまりおれを刺激するなよ。
よく「自由は厳格なルールを守る上で成り立つ」とアホなことをいうアホがおりますがルールがガチガチなのを自由とはいいません。
自由を標榜する先進国のひとつでは、自由についての考察がきちんとしていて「自由は交換条件ではない。自由を確保するということはある程度の犯罪を許容するということである」と国のトップが語っております。
閉じ込められたジプシー
話がふわふわしてきましたが、旅のジプシーから旅を奪うとどうなるか。そうです、もともと持っていた悪いところが顕在化します。
ポーランドではジプシーから旅を奪い、家に住み仕事をするようにとお触れがでまして、強制的にそうなりました。
旅の人々は実際は「自由」ではなくて、自分たち以外のルールから自由であるにすぎません。自分たちのルールは厳格でガチガチで掟です。これはつまりやくざの世界と同じです。
パプーシャは外の世界にジプシーの秘密を垂れ流したということで仲間から糾弾されます。ジプシー気質の男が我慢することでストレスをため込みアル中の暴力亭主になった例を挙げましたが、この映画のジプシーも政策により旅を奪われストレスをため込み排他的で暴力的な気質が全開するわけですね。
映画の中でそういった事柄についての善し悪しについては一切言及しません。そこまで描いているにもかかわらずこのクールな姿勢、これこそが「パプーシャの黒い瞳」の最も素晴らしい点であると私は思っています。
詩人の孤独
というわけですが、ここまで来て避けている話題があります。肝心要の詩についてですね。私は実は詩というものが少し苦手で、苦手を克服しようとした時期もありましたがやっぱり苦手なままでした。ですので詩や詩人については何も言うことができません。
詩人パプーシャの詩は映画内でもいくつか出てきますが、翻訳やさらに字幕の問題もあるし、日本人にとって詩を堪能できる映画とは思いません。詩が堪能できない分、詩のようなずば抜けた映像をご堪能ください。
パプーシャの詩は映画に合わせて「パプーシャ その詩の世界」が出版され、公式サイトで案内もされています。部数も多くなさそうなのに1000円という安価、これは興味のあるかたはお求めになっておいたほうがいいと思いますよ。2015年夏の話なのでまだあれば。この映画の公式サイトは配給会社ムヴィオラの直下にありますので映画が終わってもサイトを消されることはないでしょう。
パプーシャの晩年はとても孤独だったようです。映画の中では、長年連れ添った演奏家の夫がいて、この夫のことも敢えて善し悪しは描きません。良くも悪くも長年連れ添った夫です。でもほんというと寧ろ善いです。最終的に庇うし、ずっと一緒にいますもんね。それはともかく、パプーシャの晩年を思うとやっぱり芸術家の晩年を思います。
ジプシー気質、というか本物ジプシーなのですが、その気質の中で本当に悪い部分がほとんど顕在化せずにいたわけですね。外から見ると美しく正直な言葉と共にありました。でも文字と言葉を呪っていたのも事実でしょう。本当のところはどうだったのでしょう。詩人に夢見る外の世界の人間とはまったく違う心境だったに違いありません。
遺作
監督、脚本はクシシュトフ・クラウゼとヨアンナ・コスの夫婦です。クシシュトフ・クラウゼは「パプーシャの黒い瞳」が遺作となってしまいました。ヨアンナ・コスが生前ふたりで企画していたジェノサイド後に関する次回作の準備をしているそうです。
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