ダッチワイフ(おっと今はラブドールというんでしたっけ)が心を持ち人のように振る舞う漫画と言えば手塚治虫の「やけっぱちのマリア」を思い出しますが、それとはまたぜんぜん違うアプローチによる物語です。
心を持った人形が人間になったというような安易な設定ではなく、人形のままで心を持つということで、そこが哀愁漂うところですね。かといって人形が動き回って皆が驚くということもなく、映画的には人形であり人間でありどっちでもないけどどっちでもあるという設定ということになります。これは大変に高度な文学的な表現です。コンパスでありながら人間であるようなイタチでありながら人間であるようなそういう表現に近いのです。
これを理屈でもなく芸術でもなく、ひたすら素直に誰にでも納得させてしまえる是枝裕和の力量にまず驚きましょう。
とは言えこの技法自体は大いに普遍的です。例えばロベルト・ベニーニのピノッキオとかですね、あれなんか少年の木彫り人形をイタリア顔のおっさんがストレートに演じてるわけですからね。
本編はこの空気人形を通して人間や社会の空虚さ、あるいは優しさや希望といったものを群像劇の技法でじっくりと描きます。
もうひとつ大きなテーマはエロスです。このエロスはエロスとタナトスの対比での「生」であるエロスではなく、文字通りのエロス、エロティシズムのほうのエロスです。エロエロとやかましいですね。謝。
この映画のエロティシズムは半端じゃありません。もともとのラブドールの設定からしてテーマの根底にエロスがあるのです。エロ表現のずば抜けた変態性を映画の後半でとくに堪能できます。
ここでも「人間であり人形であり」みたいな二重表現としてのエロ表現が出てきます。
これほど厭らしいシーンをかつて観たことがありません。すごいの一言です。
そのエロスの表現に最大限の功績を残したのが女優ペ・ドゥナさんです。この人は「グエムル」のお姉さんですよね。すごいですね。女優魂に満ちています。そんでもって、美しい裸体を惜しげもなくさらけだし、最後には映画史上に残るエロティシズムの名シーンを演じきりました。
監督によると「制約の多い日本の女優は最初から考えていなかった」とのことで、そんなんでいいのか、日本女優。このペ・ドゥナさんやナオミ・ワッツさんやシャーリーズ・セロンさんを見習いたいとは思わぬか。ぬおー。と、よく脱ぐ女優シリーズが大好きなおっさんが下品に叫びまして大変お見苦しく申し訳ありません。
この「空気人形」はとても不思議な映画でして、実を言いますと見終わってすぐは「惜しかったね」と夫婦で会話を交わしたのでございます。「良いんだけど、惜しかったね」
で、その後しばらくこの映画の細部についてあれこれ語り合います。
すると、細部や脚本や詰めがぜんぜん駄目なことに気付きました。惜しいどころか駄目なところばかり目に付きます。ええそうですよ。この映画にとっての駄目なところです。こういう映画でこういう効果を狙うんならこういう部分は邪魔でしょうよ、とか、そんな感じです。
で、そうやってさんざん批判しておいて「それほど駄目なのに惜しかったということは実はよい映画なのか」という腑に落ちない状態に陥りまして「よい映画だから些細な気に入らない部分が気になるのか」と思ったりするわけでした。
そしてそれから数ヶ月経ち、改めてこうしてレビューというか感想文などを書き始めると、あら不思議、もうね、良いところしか思い出せないわけなのですね。あんなところが良かった、こんなところが良かった、あそこが凄かった、良い映画だった、凄い映画であった、と、不思議です。
実に不思議です。
これではまるで恋ではないか。
2010.06.22