「ホーリー・モーターズ」です。
個人的にはレオス・カラックスに特別な思いがあるわけでもありません。でもこの映画はわくわくして観ることになりました。
何故わくわくしたのでしょう。
理由の一つは、こないだ観たマリナ・ドゥ・ヴァンの「親指トムの冒険」みたいな泥臭そうな出で立ちのドニ・ラヴァンのスナップショットを見て、これはへんてこりんな映画っぽいなと思ったからです。
んで、観ました観ました。これはスーパーおもろい。ここまで面白いとは予想していなかったのでぶったまげました。
何がこれほど面白いのか、面白さを分析すると自分の好みがあからさまになります。今回もあからさまになる予想。
SF
何に驚いたかというと、まさかSFとは思ってもいなかったからまずこれに魂消ました。映画が始まってもしばらくの間はSFと合点せずに見続けるものだから、途中からSFとわかってきてうほほーい、ってなります。
ハードなSFではなく、どちらかというとウイット系SFで、これがまた好みでして。
童話
ハードなSFと違って、ちょっとしたSFというのは寓意じみたものを感じ取れたりして、童話のような印象を持ったりします。
ウイット系のSFならなおさら、童話感が強く出てきます。
ペルソナ
ペルソナというのは簡単にいうと人の外的側面のことです。いわゆる仮面みたいなもので、元々心理学用語ですがずっと前から一般的な言葉となっています。「人の前では仮面を被っている」「本当の俺じゃない、仮面をつけて社会の一員のふりをしているのだ」みたいな感じで、昔の恥ずかしいフォークソングや恥ずかしい青春ドラマなんかでよく使われました。「人は見かけじゃない」っていうのも似た使い方ですね。
でも実際にはこのペルソナという言葉にはもうちょっと複雑なニュアンスが含まれていて、つまりそれは想田和弘監督「演劇」で平田オリザ氏が語ったように、ペルソナを演じること自体がその人の本質であるという言い方もできるわけです。
「人はみかけですよ」という言葉が内包する意味合いですね。
大人というのは、その場その場、状況に応じて複数のペルソナを使い分けます。仮面という言葉を用いるとすれば、人は皆、たくさんの仮面を持っていて上手にかぶり分けているのでして、これの総体が即ちその人の個性に他ならないという、そういうことですね。
「ホーリー・モーターズ」を観て真っ先に連想するのがこのペルソナについての寓意でしょう。
SFというのは現実をカリカチュアライズしたり、仮定を極端な現実として描いたりする文学ですから、この映画のテーマがペルソナにあると見るのは自然なことでしょう。
それはそれで合っていると思います。でも実はそれは一面を見ているにすぎません。
どういうことか。こういうことです。
映画・虚構
ペルソナに関するテーマは、実のところ「映画」についてのレオス・カラックス監督の強い思いの具現化の一例であると見て取れるんですよ。
「ホーリー・モーターズ」のドニ・ラヴァン七変化は、社会心理学的な意味合い以前に虚構としての映画における架空の人物を表現していると思えます。ええそうです。こっちのほうが実はそのものずばりなんですね。
虚構における作られた世界感と登場人物たちです。
登場人物の全てが自身を虚構内存在としてきっちり自覚しています。そうです、超虚構です。
「ホーリー・モーターズ」の世界は、映画たる映画の世界だったのです。
もうひとつ感じることがあります。
この映画内では、いくつかの「アポ」があって、それぞれがそれぞれの虚構です。
このそれぞれの虚構、これもしかしたら、レオス・カラックス監督のアイデアメモから発生したネタじゃないだろうか、という疑いです。
「ポンヌフの恋人」のトラウマから、長らく映画を撮れなかった監督、これまで何をして暮らしていたんでしょう。きっと、映画撮りたいなー、こんな映画とりたいなー、みたいなアイデアが浮かんでは消え浮かんでは消えしていたのではないでしょうか。
そういう小ネタを、この際ぶちこんでやれーっって思ったのかもしれません。
勝手な想像、妄想ですよ念のため。
この見方をすると、ペルソナに関する寓意は「映画」を表現した映画の中で付随するレイヤーでありこそすれ、中心のテーマではないというふうとわかります。
映画・虚構のレイヤーと社会・心理のレイヤーは同時に成り立ちます。多重の意味合いを矛盾を抱えたまま両立させるという、私の大好きな多層構造の作品だということですね。
人生
ある程度の年齢になると、ふと人生を振り返ったりします。
自分の好きなアーティストがこれをやるとちょっと寂しくなります。でも嬉しい感じも受けます。
振り返り方はさまざまで、私小説みたいなのに走る人もいれば、荒唐無稽系の中に紛れ込ませる人もいます。レオス・カラックス監督はもちろん後者でした。
「ホーリー・モーターズ」を観ながら連想したのは、映画ではジャコ・ヴァン・ドルマル「ミスター・ノーバディ」です。
ぜんぜん違う映画ですが、共通点を感じずにおれません。
「ミスター・ノーバディ」は人生の選択肢を全て肯定する系、「ホーリー・モーターズ」はいろんな人生を短時間にバンバン体験する系です。
そしてどちらも文学的な意味でSFで荒唐無稽です。
レオス・カラックスもジャコ・ヴァン・ドリアルも、ともに超話題作のあと長年映画を撮れなかった体験者です。そしてこれまでの作風と全く異なる軽いタッチの作品を引っさげてきた点も共通します。
単に過去に生きるのではなく、新たな表現技法を携えて、より垢抜けたポジティブさも同じように感じます。
デジタル
映画はフィルムでないとな。
と、多分レオス・カラックス監督も思っているはずですが、それはそれとして、デジタルでの撮影でやりとげます。だって金ないもん。
デジタルならできる。じゃあやればいいじゃん、ていうこの心意気がいいです。
金遣いの荒さがあだになった苦い体験が、萎縮と逆の方向へ向かいました。金がないから撮れないという状態からの見事な脱皮が、デジタルでばんばん撮ればいいという発想になったんだとすれば、それはあんた大正解。断然支持します。
問答無用の映像レイヤー
難しい話はさておいて、この映画は深い意味を感じとることも可能ですが寧ろそんなことは野暮であって、素直にそのままに映画として映像と物語がダイレクトに観るものに迫り来るパワームービーであります。
さらに、垢抜けていてカッコ良く、洒落ていて嫌味なく、とぼけていて猥雑で、根源的な映画の魅力に満ちた、いわば原始映画なのであります。
今そこに映し出されている映像、目の前で繰り広げられている世界、ただそれだけを堪能することこそ喜びです。
意味?知らん知らん。意図?テーマ?どうでもええどうでもええ。
そういう強さもあります。問答無用の純粋映像レイヤーです。
さっきややこしい話を書きましたが、ややこしいレイヤーと、問答無用の純粋映像レイヤー、これらはまたしても完全に両立しています。
超クール!
冒頭からしてカッコいいし、ずっとカッコいいです。この映画は格好良さで出来ています。もちろん「カッコいい」は複雑怪奇ないろんな要素をひっくるめての格好良さです。
初見で映画を観ているとき、その内容の面白さに圧倒されて映像の隅々まで堪能することが困難ですらあります。
物語の面白さにうつつを抜かして、超クールなカッコいい映像を見逃しては大変です。でもこちとら普通の観客ですから、複雑な多層レイヤーで映画を観るなんて至難の業。
だからですね、何度でも観たくなる映画ですし、何度でも観れます。
人々
ドニ・ラヴァンは変な顔です。若い頃もそれなりに変ですし、近頃の変さは驚異ですらあります。
「親指トムの冒険」では人食い鬼を演じました。今回もやたら写真が出回っているシーンでは緑の服着た怪奇なやつです。
途中、アザのある男が出てきます。なんとミシェル・ピコリでした。ぜんぜん気づかなかったー。
運転手役のエディット・スコブがとても味わい深いです。インタビューによると、古いフランスの幻想的な映画に20歳のころ出演していて、レオス・カラックスもぜひ彼女を使って一本撮りたいと思っていたそうです。
世界的な撮影の名手、カロリーヌ・シャンプティエには監督も絶大なる信頼を置いていることがインタビューでも語られていますね。
エキゾチックな美女を演じたのはエヴァ・メンデス。けっこうたくさんの映画に出てる人なんですね。
予告編
普段、映画を観る前に予告編を見ません。今回も一切の情報を遮断していました。
だからこそぶっ飛びの展開にお口あんぐりよく焼いたハマグリお腹ハングリーの大興奮の坩堝で観ている間も見終わってもクールダウンできずに数日盛り上がっていました。
で、見終わったから予告編も解禁でいろいろあれこれトレイラーを見てみましたのですが。
予告編の編集についてはいつも文句ばかり言ってます。本来、予告編の編集ってとても難しい仕事の筈なんですね。
お客の楽しみを奪ってはいけないし、かといって観たい気持ちを起こさせるために素敵なシーンも入れなければならない。その案配がたいへんなんです。それはわかります。
で、今回見つけたトレイラーには二種類ありまして、日本版とアメリカ版はほとんど同じ編集でこれがひとつ、もうひとつはドイツ版のものです。ドイツ版の予告編編集がカッコいいです。日・米版のはちょっとネタバレも酷いしあまりお勧めしたくありません。国別というか、目的別予告編なのかな、よくわかりませんが。
こっちのはいいシーンを出してるし、でもほんとにいいシーンまでに寸止めしています。意味深なシーンは出してもネタバレは避けています。
音楽と合わせたカット編集も、まるでこれだけで短編映画みたいですよ。