日本では2010年のイタリア映画祭、その後、2012年の三大映画祭週間で上映された作品。
「時の重なる女」という邦題でDVD化されましたが最初の公開では「重なりあう時」というタイトルでした。
主演のソニアを演じたクセニア・ラパポルトは2009年のヴェネチア国際映画祭で女優賞を獲得しております。
イタリア映画はこんな感じ。とか、知りもしないで断定してはいけません。
しかし人は得てして自分が知らないことこそ知っているような気がしてくるものであります。自分が詳しく知っていれば知っているほど、知らないことのほうが遥かに多くて恐れ多くも気軽に断定したり決めつけたりなどできないのだ、と判りますが、知恵がないときは「あぁ。あれは大体、こんな感じやね」などと判ったようなことを言いたがるものなのであります。つまりものを知らないというのは阿保のことなので、阿保ほど決めつけを行いやすいという一つの例ですね。
というわけでイタリア映画ってのはこんな感じです。←こら
複合的にいろんなネタを仕込んでいろんな層を楽しませようとします。スリラーでは特にそうです。こういうのはスペインの映画と似たところです。
そして情緒的です。その情緒的な部分、これがイタリア映画ではわりとねっちょり系といいますか、心系といいますか、日本人にもなじみ深い「気持ち」部分に注力したり、悲しみや後悔といったネガティブな思考に嵌まる文芸上の心地よさというものが目立つようになっています。
と、イタリア映画を知りもしない阿保が何か書いていますがお気になさいませんよう。
さて、冒頭はホテルで働くソニアのショッキングなシーンからですが、その後しれーっと恋の話になってきます。
恋の話、いいですね。ソニアもお相手のグイドも少々大人の庶民です。ヨーロッパの映画というのは大人の愛をちゃんと描ける大人向けの映画が多いのです←こら。また
で、この大人の愛の物語を眺めていたら、突然事件が起きて少々衝撃を受けます。そうだったそうだった、これスリラーだったと改めて思い出します。
そんでもって、この映画どうなっていくの?と、不思議なネタ満載で話が進みます。例えば幽霊が見えたり、不思議体験したり、幻想的だったり、夢的アプローチも見られます。
たんなる「オチを待つ映画」であれば、勘のいい人ならいろいろと予想しながら見る羽目になって、ミステリー的にいろいろちょっとは文句が出てきたりするかもしれません。しかし、オチや展開、実はこうであった的などんでん返しみたいな、そういう部分だけに注目していては「時の重なる女」の楽しみを放棄しているようなものです。
実際のところ、展開の妙技はストーリー的な面白さだけのためにあるのではなく、それによって大人の女ソニアの心的なあれこれを描く映画なのであります。多分。
タイトルにもなっている「時が重なる」というのは、映画の中でも出てきますが、ふと時計を見ると「3時3分3秒」だったりすることがあって、人間こういうときは「あ」と思います。なんだか特別な瞬間が来たかのように思うんですよね。この瞬間に願い事をしたら叶うんだよ、などとファンタジックなセリフが出てきて、それを聞いて以来、主人公ソニアはこれまでになく連番に敏感になってしまいます。まぁそのぅ、そのわりにはこのことがとてつもなく重要とか、そういうわけでもないんですけどね。
重なるというか、「二重の時間」って感じでしょうか、原題のニュアンスは。
そんなこんなで、いろんな要素を詰め込んで、あれもこれもあれもこれもと欲張ったスリラー。でも実際はなかなか珍しい設定であるところの主人公ソニアの、不思議な感覚・気持ち・こころに注力した映画だってことが見終わるとわかります。
こころ系とは言え、べつにこころ部分を懇切丁寧に描くと言うこともなく、むしろざっくり描いています。見ているこちらがソニアについてのあれこれを想像できる隙を残してくれているというか。そういうところは面白いです。
この不思議な女性主人公を演じきったクセニア・ラパポルトは女優賞獲得で、これは納得です。
監督のジュゼッペ・カポトンディは初監督作品と言うことで、若い頃哲学を学んだりしていたそうですから今後も楽しみです。
映画祭でだけ上映して一般公開されない映画もたくさんあります。DVDで出してくれるのが救いです。DVD化もされていない映画祭で見かけた映画ってのもたくさんあって、どうか配給の皆さん、頑張っていろいろ出してください。