イザベル・アジャーニの名を出すときにたびたび話題にしているヘルツォーク監督の「ノスフェラトゥ」です。再見しました。何度目でしょう。何度でも観る。何度でも美しい。
というのもありがたいことに「HDリマスター版」なるものが出たようなのですね。でもこれ、不思議なことにどこにも売っていないんです。レンタルしかないんです。どうしてでしょう。売り切れただけなんですか?わかりません。他のヘルツォーク作品も軒並みHDリマスターが出ていて、いずれもレンタル可能です。あ、これら販売はBOXセットのみなんですかね。単品なしですか。単品はレンタルで、ということですね。
「ノスフェラトゥ」にはじめて触れて魅了されたのがいつのことだったのか、何十年前の昔々のお話なので記憶も定まらないのですが、とにかくあまりの美しさに衝撃と感動の嵐でして、これを観て以来、自分にとってはイザベル・アジャーニは永遠のアイドル、ヴェルナー・ヘルツォークは永遠尊敬の監督と確定したものです。
古い映画の話をしはじめると年寄りの悪い癖で思い出話ばかりになりますがあらかじめ謝っておきますね、すいません。
年齢的にはそもそもクリストファー・リーのドラキュラに魅了された世代でして、ちびっ子のころ取り憑かれるようにドラキュラシリーズを観たものでした。そしてそのまま成長して悪化し、オカルト心霊ホラーに化け物、アングラ幻想シュールにダダと、そういう気違い少年に育ってしまいました。
中学校に上がる頃には、餓鬼のくせに餓鬼の頃を懐かしんで「そういや昔ドラキュラ好きだったなあ。でも有名な原作小説読んでないなあ。よし読もう」と、そもそもの原作であるブラム・ストーカーの「ドラキュラ」を手にして、この本がまたそれはそれは面白くて、さらに夢中になったものです。ブラム・ストーカーの原作小説は技法的にも特徴があって、各章がそれぞれ人物による手記や手紙などで構成されています。これ読んだときは内容もそうですが、その技法にびっくりしたものです。
そしてそれからまた何年も何年も経った後、すっかり立派な気違い青年へと育っていたその頃にこのヘルツォーク監督の「ノスフェラトゥ」を初めて観ました。というか、この映画1979年の作品ですが日本で紹介されたのはずいぶん後なんですね。
幼少期から青年期までの間を、脈々と吸血鬼や化け物や夢や幻想やアングラと共に育ってきたわけで、決定打としてこの幻想的で美しい映画に触れて気も触れて、すっかり魅了され虜になったという話でした。つまらない思い出話で申し訳ありません。
さてヘルツォークの「ノスフェラトゥ」がどんな映画か、一言で言うと「幻想的で美しい」に尽きます。何をどう説明しても幻想的で美しいんですねこれが。そう言うしかありません。
さらにちょっと付け加えると古典的な舞台芸術のような演出であります。この舞台っぽさがとてもいいんです。セリフ回しや立ち居振る舞いがすべてお芝居っぽいというか舞踏っぽいというか、練り上げられ作られた世界を感じます。これがとてもよろしいんです。いい格好をつけて「ドイツ表現主義的」とか言いたいところですがよく知らない言葉を簡単に使うのはよしておきます。
もうちょっと他の言い方をすると、世紀末の絵画作品のような、白夜のパーティのような、狂気と退廃を全身に感じとれる作品です。
音楽がこれまた素晴らしくてですね、ここだけで白状しますが、このテーマ音楽、チルドでちょっとパクってますよ。
でもね、実はパクってることを気づいたのはこうして再見したからです。テーマ曲が流れて「あっ」と思わずのけぞります。記憶にこびりついたフレーズを自分で思いついたかの如く勘違いしていたのです。これはショック。でも納得。知って良かった。
昔「イマジン」のメロディを思いついたジョンという人は、そのメロディのあまりの出来の良さに「きっとこのメロディ、自分で思いついたと思っているが、かつて聴いたことがある曲であるにちがいない」と謙虚に思って、スタッフ総出で同じメロディの過去の名曲がないか調べさせたそうです。偉いですね。私なら「ええ曲思いついた」って即自分のものにして、あとになって「アホ。ノスフェラトゥの曲とそっくりやないけ」とバレてカッコ悪い、と、こうなるんですね。
しかし私の名誉のために言い訳しておきますが、このメロディはそもそも日本古来(?)の豆腐売りの歌声と同じようなものなのでして、ポポル・ヴーが豆腐売りのメロディをパクったんですよね。違いますか。
違うようです。
何か話があらぬ方向に向いていますので映画に戻します。
このヘルツォーク監督の「ノスフェラトゥ」は、かつての名画「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクなのであります。
リメイクであるというのは聞きかじっていましたがあまり気に留めておらず、監督の才能を全開で受け入れていました。でもどうやらオリジナル作品のかなり忠実なリメイクなのだそうですね。
ですので、アート臭や表現主義的なるものや退廃感などは、そもそもの「吸血鬼ノスフェラトゥ」に備わっていた要素のようなのです。
そんなの聞くと黙っておれません。ぜひともオリジナル「吸血鬼ノスフェラトゥ」を観たくなるのであります。で、探しますと簡単に見つかりまして、DVDにもなっています。よし買おうと思ったらありがちな話ですがプレミア価格となっていまして、そんなものは買いたくありません。
で、もうちょっと調べたらですね、なんと廉価版が発売されていました。廉価にもほどがあるという、これが500円ですって。うほほ。買う買う。
※ 追記: 買いました。→「吸血鬼ノスフェラトゥ」
そんなわけでオリジナルとリメイクの相違点や共通点については「吸血鬼ノスフェラトゥ」を観るまでは保留しておいて、こっちの「ノスフェラトゥ」についてもうちょっとだけ何か書きます。
イザベル・アジャーニについてはいろんなところでそのファンっぷりを書いていますのでいまさらですが、この作品での美しさはやはり古典絵画のようなと形容するしかありません。あるいは古典的な舞台芸術のような、またあるいは舞台を描いた絵画のような、という、そんな美しさです。
映画そのものが美しさと気品に満ちていますから当然そうなります。
クラウス・キンスキーが演じる化け物もオペラのようです。時に無茶苦茶カッコいい姿を拝見できます。
犬歯でなく前歯が出ているノスフェラトゥの造型は鼠を想起するデザインなのだと思いますが、これがわりと可愛くお茶目な感じにも見えてきたりもします。
ジョナサンを演じているのがブルーノ・ガンツです。今やブルーノ・ガンツと言えば渋いおじさまのイメージでありますが、このときは青年に毛が生えた年頃の役です。
前半の、ジョナサンが旅するシークエンスではその風景描写に圧倒されます。一部「2001年宇宙の旅」の冒頭を思い出すような、荘厳な風景描写もあります。音楽の使い方も見事。圧巻です。
iTunesにもオリジナル・サウンドトラック売ってますね。音楽もいいですよ。いいです。
というわけで美化された記憶も含めて名作映画のひとつ「ノスフェラトゥ」でした。正直に言うと、美化された記憶があるからこそ贔屓目で見ているという点は、これは多少あります。
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