まさに「原発映画」です。
「ヒミズ」を撮っている最中の2011年に連続原発事故が起き、脚本を変更せざるを得なかった園子温監督が、今度は事故2年以内の時期に「今こそ大急ぎで撮らねば」と強い思いに駆られて撮りあげた作品です。
入念な取材を元にしながらも、普遍性を打ち出すために敢えて「長島県」という架空の県で津波と原発事故が起きるという設定にしたようです。普遍性を表現するためとかいいながら、実際のところ生の福島を描くことに対する複雑な心境というか予想できる圧力というか、いろいろ事情ががあったからSF設定にしたのだと私なんかは思っています。
二つの前提、その一
長島県なんていうパロディじみた設定は普遍性どころか説得力やリアリティすらありません。これをもって「希望の国」という映画を否定する人もいるでしょう。私も見る前はそう感じていました。「長島県?なんだそりゃ。上手く逃げた?」って感じです。この設定、逃げの姿勢であると言えなくもないですが、「希望の国」を見終わった今、そういって批判することは私にはとてもできません。批判する気も否定する気もありません。
監督にとってぎりぎりの選択だったのだろうと思っています。まず第一に、生の福島を描いていたら製作資金も集まらないし上映館も確保できなかったかもしれません。つまり映画として成立しなかった可能性が高いのです。
どうしても大急ぎでこの映画を完成させるためには、架空のSF設定にする以外なかったのではないかと思っておるのですよ。
(実際には、このような設定にしても日本での資金集めだけでは不可能で、数カ国の資金で製作されました)
福島原発事故の直後に起きた長島県とやらの原発事故っていうわりには、このSF設定にはいろいろ破綻もあります。福島事故を踏まえてなさ過ぎることがその筆頭です。つまり「福島原発事故に引き続いての長島県原発事故」という設定に無理が生じているのは、この設定が本来は福島県そのものものを描いているという暗黙のベースがあるからに他なりません。
福島を長島と置き換えたドラマであっても、映画を貫くストーリーには大きな違和感はありません。ですので、普通によくある「この物語はフィクションです」を成り立たせるために敢えてSF設定にしたのだと受け取ることは受け手として自然なことであります。
映画を作ることを第一義として、架空の福島県というSF設定を用いたことに対する批判の件ですが、我が身に置き換えてみて、自分の日和見的態度や勇気のなさ根性のなさを痛感するとき、園監督が長島県という設定を設けた程度の技巧でこの映画を作り上げたというそのこと自体に価値があるのでして、細かいことで文句を言うなど恥ずかしい話であるというのが、映画を見終えての感想です。
これがひとつの感想です。感想というか、感想のための前提です。
感想のための、実はもうひとつの別の前提があります。それはもうちょっと後で。
多層な内容
その前にこの映画の内容の感想ですが、私はかなりよい映画だと思っています。練りすぎず、溜めすぎず、急いで作ったからこその荒削り感がほどよく園子温風味のくどさを和らげており、それがいい風に出ていると感じました。
そして2012年のうちにどうしても作っておかねばならなかったその心意気が最も重要で、それを成し遂げたこと自体に尊敬の念を抱くものであります。
社会的見地としての原発映画
原発映画として、いくつかの見方ができます。
ひとつはもちろん原発の映画としての社会的見地です。この部分でも園監督はとてもいい仕事をしています。実際の危機と社会との乖離の部分においては、特に大袈裟にするわけでもなく、正しく状況を描写しています。社会ひいては国というものの姿もあぶり出します。この映画は「希望の国」というタイトルですが、この映画を観て希望を感じる人はあまりいません。正しく「絶望の国」であることの中に「生きる以上希望を見つけてそれだけを頼りにする以外ないのだ」と庶民が痛感する、より強い絶望が待ち構えています。
ドラマとしての原発映画
ひとつはドラマとしての見方です。登場人物のキャラクターやセリフや振る舞い部分のドラマチックな出来映えです。これも大層いいです。父親と母親の夫婦、息子と嫁、別の若いカップルとその両親、登場人物たちのドラマはかなりぐっときます。ちょっと臭い演出も散見しますがあんなのは予告編で使って客を呼び込むための感動系サービスシーンですので気にしません。
(たとえば上のチラシ画像なんか感動系受け狙いの見本のようなデザインになっております)
父親と母親
父親と母親の夫婦愛については奇しくもミヒャエル・ハネケの「愛、アムール」が同時期に公開されています。日本では2013年に観ることが出来ましたが、似た環境にある夫婦の物語を感じることが出来るでしょう。
夏八木勲の名演技が光ります。役割的にも、最もわかっていて最も冷静で最も傷ついているとても良い役です。
息子と嫁
息子は最初ちょっと堅物で情報を知らない一般の洗脳組と同じような扱いです。いわゆる「大丈夫おじさん」と呼ばれる安全デマと日々のルーティンに負けて埋没する庶民の役です。無自覚ながら洗脳に荷担する側の権威主義者の一種で、最初嫁と敵対関係すら生じかけるような展開となります。このままこの単純な対立軸でストーリーが進むのかと思いきや、この息子、愛する嫁の話に耳を傾けだし、ちゃんと人間性を取り戻していきます。
この息子のストーリーこそ「希望の国」の希望に当たる物語です。
若いカップル
別の家族の若いカップルが登場します。彼らの物語はちょっと趣が異なり、ファンタジックな部分も含まれます。彼らのファンタジーも「希望」の一篇を担っていますが、その希望は実に複雑な希望です。その複雑さについてはまたあとで。ここでちょっと話を戻して、この映画の感想を持つための前提という部分に戻ります。
二つの前提、その二
この映画の全体の構成というか設定、架空の長島県原発事故というSFです。大人の事情でこうなったという見方と、もうひとつ別の見方ができると強く感じています。
それはこのSF設定が最初から必要にして重要なことがらであるという前提です。
福島を描くために、フィクションですよと逃げを打つために無理矢理取って付けた設定ではなく、実のところ一番大事な点として受け入れることによって、「希望の国」はわりととんでもない傑作映画の形相を帯びてきます。
「希望の国」では国そのものは描きませんが、国に洗脳された庶民たちは出てきます。原発事故そのものよりも、事故後の洗脳や政府対応のお粗末さをあっさり気味ですがしっかりと描きます。
観る人によっては「大袈裟」と感じるかもしれない嫁の恐怖心や、両親の絶望なども描きます。
福島を踏まえていても尚、ふたたび起きた原発事故では事情を心得ている人と洗脳されている人とではまるで違う世界に生きているという表現もあります。
これら表現は端的に言うと「まさにSF」です。そもそもSFのある種のジャンルは風刺のためのカリカチュアライズを行うものです。
「二度起きた原発事故」という、破滅的な状況下における家族の愛と希望の物語です。愛と希望はもちろん絶望とセットです。
長島県というのが日本のどのあたりにある設定なのか明確ではありませんが、もし西のほうの設定だとすれば、もはや日本国内に逃げ場はありません。東は福島で滅び、西は長島県で滅びます。
つまりはっきり言うとある国の終末を描いたSFなわけです。
終末
終末世界がどんな世界かというと、みんなが終末を共有しているマッドマックス的世界でもないし、惑星衝突のメランコリアでもないし、アンチ神話の6日後の消滅ニーチェの馬でもないし、ひとりの厭世主義者が他人のために我が身を犠牲にするサクリファイスでもありませんし、危険なゾーンを避けて通るストーカーの世界でもありません。
終末であることを懸命に無視しようとする愚者に支配された世界です。無理矢理言うと大丈夫ゾンビに征服された狂気の終末世界です。
このような設定の終末SFはこれまでの映画ではありませんでした。多分。
日常を死守する終末世界の絶望です。その中で主人公たちの愛と希望を描きます。狂気の終末世界における僅かな希望にすがる家族の映画です。
と、そのような映画であるという前提で「希望の国」を観ると、映画として斬新でかなり深みのある特殊なSF映画、先ほどそれとなく例に挙げたような文芸的SFの傑作たちと同列に並べていいほどの見事な映画であるという感想が湧き出てきます。
そういう見方はただの妄想でしょうか。
ファンタジー、ノスタルジー、愛と希望
ここでさっき書きかけた別カップルのファンタジックなお話にも関連しますが、一部出現する幻想的で悲しいシーンなどに如実に顕れております。レコードを探している子供たちのシーンです。
あの幻想的なシーンの美しさ、哀しさ、ノスタルジーは、単なる生々しい社会派原発映画の範疇を超えています。夫婦のシーンもそうです。さらに、ラストシーン近くの、「愛があるから大丈夫よね」「そうかな」の繰り返しのセリフの中にも宿っています。
終末を認識しない終末世界という舞台設定の中で小さくもがき希望にすがる家族の構成員を丁寧に描く、たいへん斬新な文芸SFの魅力を備えているとここで断言しておきます。
希望の国
「希望の国」というタイトルを聞いて、真っ先に連想したのは私が好きな書物のタイトルであり曲のタイトルにも拝借したことがある「正気の社会」です。
私、「正気の社会」は本の内容に沿った拡大解釈として、狂った世の中を示す皮肉としてよく口にします。
「希望の国」も全く同じ意味で使ってよい言葉となりました。
映画のエンディングを迎えるとき、ばばーんと激しい字体の「希望の国」というタイトル文字が出現します。強烈なシーンです。このとき誰しもが大きな絶望を感じるでしょう。
「希望の国」という言葉は語呂の良さもあって、この映画を観て以来、我が家の会話の中にも頻出するようになってしまいました。
呆れるようなニュースや恥ずかしさのあまり消えたくなるような報道に触れる度、「なんじゃそりゃ」「ひでー」「最悪やな」などの一連の反応の後、「でもまあ希望の国やからな」「希望の国やもんな」と会話を諦めで締める癖が付いております。
「愛があるから大丈夫よね」
「そうかな」
「希望の国やからな」
「希望の国やもんね・・・」
園子温監督からの原発についての大いなる質問状です。