時間を遡って逆回しに描く技法は文学でもちょっとはお馴染みです。死ぬところから始まって生まれるところで終わる物語なんかもあります。オチから始まりきっかけで終わるという時間を遡って描くこの技法は、面白い使い方が出来る一方、効果が単純なものになりかねません。
単に思いつきで「そうだ逆から作ってみよう」程度の認識では面白いものは作れないわけで、まず時間の流れというものが虚構の中でどのような位置にありどんな風に使われてきたかを認識した上で、目的を持って必然として使わねばなりません。
そういうわけで離婚シーンから始まり、時間を遡った順序で5つのシークエンスで構成される「ふたりの5つの別れ路」です。
離婚シーンの次はリビングで親戚パーティ、その次は子供が生まれる頃、と、そんな感じです。
時間を遡る繋ぎ目はヒットソングと暗転でとてもわかりやすく出来ており、決して時間の流れを逆行させることによる実験的側面を強調しているわけではありません。
時間を遡る技法は愛の映画としての目的と必然からなるのであって、破局を先に見せることによる「しあわせだったあの頃」に潜む闇の瞬間を見るものが見つめることを目的としております。
ここでギャスパー・ノエの「アレックス」を思い出します。「アレックス」もある意味愛の映画です。「ふたりの5つの分かれ路」は、技法的には「アレックス」と同系統の作品といっていいでしょう。
結末から時間を逆回転させて描き、破滅的結末を先に見ている観客に、そこに至るかすかな伏線を後から見せて強く印象づけるという作風です。
ただし「アレックス」の方は破滅っぷりが半端じゃないし、時間の逆行そのものをテーマにしている節があって、虚構と時間というものごとについて筒井康隆ぶりに考察した跡が見えます。不可逆的直線的な時間の概念そのものをつきつけまして、そういう意味でやや実験的な映画です。そのあたりはちょっと違う点です。
「ふたりの5つの分かれ路」は時間が逆行するのではなくて、5章に分けて順序を逆に並べているだけです。どう違うのだと言われれば説明がたいへんですが、とにかく似ているようで全然違います。
「ふたりの5つの分かれ路」がメロドラマとして必要以上に難解になることを避けた注意深い設定だと思います。
そんなわけで技法なんかよりもその内容に注目するように出来ていまして、メロドラマとしての出来の良さ、ドラマに感情移入できる度合いは高いです。
破局に至る経緯の、その時々の夫婦の姿をナチュラルに映し出します。ただし破局に至る直接的原因は描かず、というか、直接的原因などなく日常に潜むかすかな闇の連続こそが破局へと導く鍵なのですが、とにかく「なぜこうなった?」という簡単な理由は描きませんしそんなものはありません。
「なぜこうなったと言われましても・・・」と、過去を最初から振り返るしかない、というそういうリアリズムです。
一見すると「素敵な奥さんとうじうじ男の駄目亭主」と見えなくはないですが、ある肝心な点について「夫がそれをすでに知っている」と仮定することができるので、そういうところまで見てあげると複雑な夫婦の心理が見て取れて偏った意見に流れずに済むかもしれません。や、余計なお世話ですか。
さて奥さんを演じるヴァレリア・ブルーニ・テデスキが素敵すぎて悶絶必至です。
この方、私は「10ミニッツオールダー」のベルナルド・ベルトルッチ「水の寓話」で始めて見まして、強烈に印象を残しました。「ジャーマングッド、ジャーマングッド」「ここイタリアよ」のあの人です。それから「ぼくを葬る」でも強烈な役をやっていましたね。
ヴァレリア・ブルーニ・テデスキはイタリア人で、「おせっかいな天使」でセザール賞を取って多作に出演、監督もされています。
「ふたりの5つの分かれ路」ではヨーロッパ映画賞女優賞の候補になりました。
ひときわ目立つ妻の両親、お父ちゃん役はあの人ですね。マイケル・ロンズデール。この人の存在感も大きいですね。体も大きいです。最近作は「アレクサンドラ」と「神々と男たち」です。実は人類史上最強映画(個人の判断によります)のひとつ「エレンディラ」にも出ています。どれも素晴らしい映画でどれもとてもよい役ですね。マイケル・ロンズデールは1931年生まれの、もうおじいちゃんと言っていい(いえ当然)年齢です。