Movie Booの節々で登場している「エレファント・マン」ですが、これはデヴィッド・リンチが「イレイザーヘッド」の次に撮って世界中に名を知らしめた超大ヒット作品。「エレファント・マン」のヒットがなければもしかしたらデヴィッド・リンチがこれほどの大物になり得たかどうか疑問なところもあります。
「エレファント・マン」が日本で公開されたのは公開年翌年の81年で、これは比較的早い公開と言えると思います。こんな怪っ態な映画が大々的に紹介されたのも快挙、もし時代が今ならミニシアターで済まされていたことでしょう。
日本での公開時、どういうわけか私の通っていた学校が授業の一環として鑑賞させてくれたのであり、最初は「学校に無理矢理連れて行かされるとは、こんな映画つまらないに違いない」と思っていましたが観てみたらこれがまあ驚くべき作品で大興奮。学校も時に素晴らしいことを行うものです。
話はそれますが、私のような年代あるいは地域によるのかもしれませんが、子供の頃から授業の一環として映画を観せるということがたびたび行われておりまして、それどころか町内のお祭り(京都独自の地蔵盆という催し)などでは野外映画上映会なども頻繁に行われ、我々ちびっ子は「わーい。映画だ映画だ」とわくわくはしゃいだものです。
映画というものが庶民の暮らしに如何に密接であったか思い出されます。
小学校へ上がる年代になると教育的内容の当たり障りのない映画を鑑賞されられたり、中学校くらいになると意外と面白い小品などを観に行かされたりして、映画少年を育て上げました。アホなことをしたものですね。おかげで私のように中学校をサボって映画を観に行くという不良少年を生んでしまいました。で、高校にもなると最終的にデヴィッド・リンチを授業の一環として観るという、頭のおかしな状況になるわけです。でも行っていた学校が美術の学校だったので教師の頭がおかしいわけではなく、シュルレアリスムや世紀末フリークス、白黒映像にロンドンの建築と、観るべきところが多く確かに勉強になる内容でもありました。これを生徒に見せるとはなかなか渋い選択です。
と、個人的体験はともかくとして「エレファント・マン」ですが、でデヴィッド・リンチの長編デビュー作「イレイザーヘッド」を見てわかるとおり、フリークスをフリークスとして過激に描いている部分を見逃すことは出来ません。映画そのものが見世物小屋なのであり、19世紀退廃ムードと相まっていかがわしさ満点です。
シュールで攻撃的でアート臭さぷんぷんです。
これに非常によく出来た啓蒙的ドラマを組み合わせたことによる複合的な効果は「エレファント・マン」の価値を一気に押し上げ、未だに見続けられる名作映画として確固たる地位を築いたのであります。
良い映画というのは多方面から様々な見方が出来る複合的な要素を伴っており「エレファント・マン」にもたっぷり含まれます。
レイヤー構造の複数の見るべきテーマが混在し、見る人、見る時期、見るときの気分などによって違う部分が楽しめたり別の角度からの発見があったりするわけで、そういう意味で十分に「再見に値する作品」と言えるでしょう。
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