山本政志監督は「スリー☆ポイント」製作の前、熊楠の映画を気合いを込めて撮っていたそうで、残念ながら諸処の大人世界の事情により頓挫。映画製作に関する怒りと嘆きと絶望感の後、一年前の今ごろ「そうだ映画は情熱だ」とむくりと立ち上がり、超インディーズ宣言と共に突如として「スリー☆ポイント」の企画を立ち上げました。
超インディーズ宣言は、映画製作の資金集めから映画作りそのものへの労力と情熱をシフトさせる宣言で、公式サイトの「超インディーズ宣言」で読むことが出来ます。
企画立ち上がりと同時に行動もスタート、いきなり京都でオーディションを行ったりオーディションしたと思えばそのまま撮影したり何も考えずに沖縄に飛んだり深く考えたドラマをゲリラ的に東京で撮影したりと、まさに熱意と情熱と勢いで怒濤のように撮りまくり、1年で完成させ公開まで漕ぎ着けるという離れ業、力みなぎる作品となりました。
3箇所のロケ地、3つの技法
タイトル「スリー☆ポイント」はまずこの作品のロケ地である三箇所を示しています。沖縄、京都、東京です。それぞれの地域で、全く異なるアプローチによる撮影方法が取られました。
沖縄
沖縄ではそこに住む人間へのインタビューを中心としたドキュメンタリーです。監督自らがインタビューアとなり、出会った人々の声を届けます。
京都
京都では地元バンドや地元民の出演による生々しい即興ドラマです。実に「ほんとくさい」部分と、いかにも即興ドラマ風の部分が混在する不思議な不良物語。
東京
東京は長編映画用に書かれていた脚本を修正し中編映画化、撮影は都内各所でゲリラ的に行ったらしいです。有名俳優が出演していますがスタッフは学生が多かったのだとか。
3つ巴で混在
ドキュメンタリーと即興とドラマ、この三つのポイントが一本の映画の中に入っています。とは言え三つに分かれたオムニバス風の構成などではありません。短い時間の中で次々と入れ替わったり、ある部分を後半にまとめて持ってきたり、構成の妙技が堪能できます。
ニュータイプ群像劇というかちりばめられた断片というか、単なる三つの場所による三つの部品を並べたのではなく、部品をさらに分解し配列し直し、ドキュメントとドラマを混在させた不思議な時空感覚を作り出しました。
この一見バラバラな断片、全て見終わった時には一本の太い何かがどどーんと貫いていることを発見できて心を鷲掴みにされるんです。これは実に優れた、新しい技法です。
3つのポイントを貫く何か
三つのポイントに貫く何かとは何でしょう。それを口にすると途端に野暮になるかもしれません。まず前提としてこの映画には「一貫したテーマなどない」というボーダーレスの自由さがあるからです。バラバラだからこその面白さなわけです。
しかし騙されてはいけません。一貫した不自由なテーマがないこと自体ひとつのテーマだし、本当に心底バラバラでボーダーレスな作品を創ることはクリエーターには不可能だからです。二つの側面から見てみます。
オートマティスム
まず一つは監督のオートマティスムです。オートマティスムとはシュルレアリストたちが好んだ「詩人や芸術家による出鱈目筆記」のことで、ここに霊的あるいは芸術的な発現が訪れるという、いわばフリー理論ですが、これを監督に当てはめると「情熱と勢いで後先考えずにがんがん撮りまくり、あとで編集しただけ」とも言える作業の中で、自ずと深層にあるテーマが滲み出てくるという理屈が浮かんできます。
つまり映画におけるフリー・インプロヴィゼーションの結果ということです。準備から撮影から編集から何から何まで大変丁寧な作業が求められる映画制作というものに、芸術家の自動手記や音楽家のフリー・インプロヴィゼーションの技法を用いることで新しい価値をもたらすという、それが出来るのは余計な雑音がない状態、つまりインディーズ作品ならではの効果でもあります。
その結果、この映画には山本監督が秘める心の奥がどどーんと貫いて出てきています。滲み出るのは人間そのものです。表層と深層、正解への疑問、自由と拘束、いろいろ見て取れます。見た人が好きに解釈できるネタは満載です。
インプロヴィゼーション
もう一つは、東京編の脚本から垣間見える映画全体のテーマです。映画インプロヴィゼーションの技法で撮られたとは言え、カメラを回す時、誰かに何かの指示を出す時、本当に出鱈目というわけがありません。山本監督の脳味噌の奥深くには、やはり明確でないかもしれないがえぐり取るべきテーマがあると思われます。
例えばデヴィッド・リンチという監督は「インランド・エンパイア」の撮影でインプロヴィゼーションを行いました。出鱈目に撮影し即興も交えバラバラな断片を繋げた訳の分からない映画で、リンチ自身が「何も考えてない。バラバラに撮って繋げただけだ」なんて言ってますが大嘘で、監督の頭の中に構築されていたであろう深い物語性やテーマが浮き彫りになって形になっておりました。
同じく山本監督がいくら「勢いで自由に撮っただけだ」と言っても私は信じません(笑)
「偉大な作品は、作家ですらその作品の価値を自身で判断することが出来ない」とかつて偉い文芸評論家が言いましたがその通りで、インプロヴィゼーションによるピースが無数に嵌め込まれ完成した本作の価値は監督の深層心理に潜むテーマともうひとつ時代や社会との関わりの中で発現するテーマに満ちているのです(断言)
この映画に貫く人間への対峙は、同時に社会性も帯びています。人間への対峙、社会性、言葉は簡単ですが「スリー・ポイント」ではこれらを即興と勢いの中から絞り出すことに成功しています。
三箇所のロケ地と三つの技法、即興とドラマすら混在させ勢いに任せて作ったこの映画に「貫く何か」とは何でしょうか。私にはそれは「演じること」として感じられました。社会における人間の行動原理までも含めた広い意味の、それはロールプレイです。
ロールプレイ
京都編の中に見える京都臭さのリアリティは半端じゃありません。京都臭さが満開すぎて身をよじるような思いを味わいました。
私は京都のバンドマンでもありますから、バンド物語を見たり読んだりするのが恥ずかしいです。ですがここに登場するバンドマン(というかラッパー)とは種類が違うので、恥ずかしさは別の意味でなんですけど。
ラッパーに対して感じる嘘くささは重要だと思います。この嘘くささの根底にあるのは…何ということでしょう、東京編のドラマに通じる「ロールプレイ」です。おっと口を滑らせすぎました。
沖縄編はどれもこれも魅力的で価値あるインタビューです。特に強く印象に残ったのは、戦争という物の本質に迫る言葉に満ちていたあのおじさんのインタビューです。
戦争というのはファンタジーではなく公共事業です。使うコマは生きた人間ですが、政治的には他の公共事業と同じ、単なる政策の一つに過ぎません。これを最悪と思うかどうかは人間性に関わることですが、認識しておくのは大事な点です。このことを実感できる現場の声、これは貴重でした。
沖縄編では全てが生の声です。生き物としての人間がドラマ性0、ドキュメンタリーの形で登場します。
東京編は完全なドラマです。元々の脚本は「SWITCH」という長編用脚本で、これを改変して採用されたそうです。
蒼井そらが何度も同じセリフを喋るシーンがすごいです。いやあ役者さんって、普段からああいうことを生業にしてるんですよねえ。
東京編が始まって、さてどんなお話なのだろうと思っていたら、意外な展開に唖然です。その展開が、三つのポイントを確実に繋げます。
人間の正解がどれだなんてありません。嘘とかほんととかありません。それぞれのポイントでそれぞれの生き方をしています。
三つのポイントでのそれぞれの人間のありようと撮影技法が完全に一致していることに気づくかもしれません。
ここまでくると「スリー☆ポイント」というタイトルが重く重くのしかかります。
人間は人間を演じます。それを社会性と呼んだり、映画やお芝居に高じるとも呼んだり、ペルソナとか呼んだりします。人が自分を演じるとき、単純に何か一つだけを演じるわけではないですね。お芝居のセリフも日常を過ごすための言葉も、社会の中でのロールプレイとして違いはありません。時と場合によって演じるガワはころころ変わり、そのころころの総体がアイデンティティに繋がります。それがその人個人そのものと言えたりします。
複数の技法を即興でまぜこぜにして一本の映画が完成したとき、個々のバラバラなピースはその映画固有のパーツとして一本の映画を形作りました。全てのパーツがロールプレイに帰結するように構成されたのは、意図的なものでなくてもそれは意図だと断言することができると、私は感じたのでございます。
個人の感想です
ちょっとした感想のつもりが、やや本質にせまりすぎましたか?いえいえ、単なる個人的感想文です。見る人によって感じる部分はいろいろあることでしょうきっと。
というわけで畏れ知らずの勝手な感想文でしたが、こんな変な文章に惑わされず、ピュアな心でピュアにお楽しみください。力を感じるたいへんよい映画です。
日記版感想文「スリー☆ポイント」行ってきた
「スリー☆ポイント」上映予定
東京 ユーロスペース
横浜 ジャック&ベティー
高崎 シネマテーク高崎
松本 松本シネマセレクト
新潟 シネウインド
名古屋 シネマスコーレ
京都 京都シネマ
大阪 シネヌーボー
広島 横川シネマ
沖縄 桜坂劇場
他
(最新情報は公式サイトにてご確認を)
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