そういえば肝心の「屋敷女」をまだ書いていませんでした。
人を小馬鹿にしたような邦題を付けられたこの映画のタイトルは「A l’interieur」英語では「Inside」と至ってシンプル。
怪女優「ベティ・ブルー」のベアトリス・ダルが世にも恐ろしい謎の女を演じます。
いわゆるこれは「怖い人に追われる」系のスリラーでして、その恐怖は近年最高峰。
観ながら、思わずうめき声が出て身もだえして壁を掻きむしります。フレンチホラーの頂点と言っていい恐怖と残虐を描き尽くした作品となっております。
この映画を観て「ギャグかと思って笑った」とか「たいしたことない」なんて言う人は神経が麻痺して正常人間に感情移入できないホラーオタクだけですよ。これほど恐ろしい作品はちょっとありません。モラルとか、死にました。酷すぎます。いやほんと。
その恐怖の表現ですが、そこはさすがの映画芸術立国フランス、序盤の丁寧な作りが大変効果を上げています。
新人監督とは思えないフランス映画の正統の血を受け継ぐその演出は、映画的日常性と主人公女性への感情移入を助け、我々を映画内へ身を委ねさせるんです。
フランス映画的リアリズムは、本来ホラーやファンタジーとは相容れない性質を持っていて、恋愛映画にしろ犯罪や事件を扱った映画にしろ、人間のどろどろや深い傷、悲哀や後悔との相性がむしろいいんですね。
フレンチホラーはそこに目をつけ、元々ファンタジー、エンターテインメント要素が強いホラーテイストを大真面目に付加させることにより、新しいリアリズム・ホラー、文芸的残虐を提示したと考えています。
さて序盤は自身の運転する車の衝突事故により夫を失ったサラ(アリソン・パラディ)の物語です。彼女は深く傷ついており、そして出産間近です。
単に登場人物を紹介するためだけの説明的描写でないところがほんと大事です。
どうかサラの身に怖いことが起こりませんように、と無駄と知りつつお祈りをしてしまいます。
クリスマス・イヴの夜、見知らぬ女が「電話を貸してほしい」と訪ねてきますよ。おおいやだいやだ。「卵をください」と同じくらいいやな気分になります。
そう、例の「卵をください」に匹敵する不愉快さ不条理さ残酷さですよね。
序盤を丁寧に描いたことによって、後半のドシャメシャスプラッター、究極のゴア、すさまじい切り株がとんでもなく恐ろしいことに映ります。 この厭らしさは製作サイドの狙い通りです。
サラを演じるアリソン・パラディはヴァネッサ・パラディの妹さんですって。酷い役をよくぞやり遂げました。
ベアトリス・ダルはインタビューで「人間の美しさや社会問題を扱った映画に興味がなくなった」「人を殴ったり子どもを食べるような映画が面白いと思うようになった」「普通の映画は面白くない」「この映画はシナリオも読まずに監督二人の人間性に共感が持てたから出演を決めた」「非日常のオペラのような作品になった」と、カッコいい発言を連発。
さて「屋敷女」、日本では残虐表現が激しすぎるために映倫が審査を拒否したとのこと。仕方なしに配給が自主的に修正を行い、ぼかしが入りました。セルDVDは未審査のノーカット版が販売されています。
この映画ほどの理不尽な残虐映画は、たしかにちょっと問題があるかもしれません。「ここまでやったら、次はどうなるのだ」と思ってしまうんですね。遠慮というものがない、ダイレクトなリアル残虐、失ったモラル、度が過ぎれば割ととんでもないものになっていくのではないだろうかと危惧しました。
実際にはそんな危惧は杞憂でして、映画を作る人ってのは残虐だけが好きな変態ではありませんから、そこには文化的芸術的あるいはエンターテインメント的な価値がやっぱり必要なわけです。
究極の「屋敷女」のあとに世に出たフレンチホラーの話題作「マーターズ」を観てみれば一目瞭然。度が過ぎた残虐から、また何か新しい面白さを作り出しているじゃありませんか。心配ご無用ですね。
それに「屋敷女」はモラル欠如の残虐映画というだけではなく、美しい画面に目を奪われることを忘れてはいけません。まあ、観てる間は怖さのあまり注目を忘れがちですが、アーティスティックな画面に大きな価値があります。ベアトリス・ダルが絵画のような構図の中で存在感を放ちまくります。美しい音楽もいい。
さて監督・脚本のアレクサンドル・バスティロとジュリアン・モーリーの最新作が発表されたとのことです。
「LIVIDE」 というタイトルで、今回は「スーパーナチュラルホラー」だとか。いつか観ることができるでしょうか。
2009.09.18
追記
今、数年後の2013年です。「リヴィッド」観ましたけど、ぜんぜんスーパーナチュラルホラーじゃありませんでした。ゴシックファンタジーでした(笑)
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