韓国で超弩級の大ヒットを記録したという80分ほどのドキュメンタリー映画です。
79歳の爺さんと76歳の婆さん、そして余命幾許もなさそうなやつれた農耕用の牛を淡々と映し出します。
「年老いた牛と老人の心温まる愛と感動の動物ドキュメンタリー」などという甘っちょろい映画だと思ったら大間違い、 火傷しますよ。
農耕用の牛は爺さんにとって仕事道具です。可愛いペットじゃありません。ガリガリに痩せて歩けなくても鞭打って仕事をさせます。でも爺さんは牛のために草を刈ります。「市販の飼料なんか駄目だ」農地に農薬は一切使いません「農薬なんか使ったら牛の餌が毒になっちまう」もうね、牛一筋です。
この爺さんは牛と同じくらい弱っていて、這って農地を歩かねば前にも進めない状態です。牛か爺さんかどちらが先に死んでしまうのか予断を許しません。
婆さんはこの映画の真の主人公と言っていいでしょう。ずっと喋りっぱなしです。それも毒舌です。暴言吐きまくり。「こんな牛はさっさと売ってしまえ」「こんな男に嫁いだばかりに私は不幸だ」
心の底からの文句ばかりです。どんな俳優でもこの婆さんを演じることは出来ないでしょう。
お盆に育て上げた子供たちが一堂に集います。チャンスとばかり婆さんは訴えます「牛を売っぱらえって爺さんに言っとくれよ」
みんなで焼き肉を食べながら子供たちは口々に爺さんに「売ってしまえ」「隠居しなよ」「潮時よ」と一斉攻撃。子供たちってのはどうあがいても母親の味方をするもんです。それを聞きながらばつの悪そうな爺さん、そして後ろでにんまりする婆さんです。
婆さんがしみじみ言います「私は不幸の星の下に生まれた。幸福な星の下に生まる人もいるのに。幸福な星の下に生まれた人は旦那がちゃんと農薬を使ってくれて楽させてくれるんだ」
幸福の想像力がその程度なんです。
この婆さんの不幸と悪態と毒舌は、耐性のない人には洒落にならないレベルですが、大いに笑わせてくれるし、このドキュメンタリーに動きと華やかさを与えています。
牛に力がなくて夫婦を引いて動けなくなるシーンがあります。爺さんが一言。「お前降りろ」婆さん降ります。そして悪態です。
自分たちの葬式用の写真を撮りに行くシーンがあります。ここでの婆さんの最強の一言で皆さん椅子からずり落ちてください。
そしてラスト近くの牛に対するほんの一言、この言葉を皆さん聞き逃さないでください。
そもそも牛ってのはいけません。あの素朴な顔立ち、大きな身体につぶらな瞳、あの目で見つめられるだけでもういけません。昔から牛は農耕仕事の道具であり荷車でありパートナーであり家族です。人間とは長い付き合いです。
しかしまあ、そんな牛をみんなして食べてしまうなんて何というおぞましい行為でしょう。人間にとって毒である牛の乳を飲むなんて何という冒涜的な行為でしょう。
しかし悲しいかな牛の肉は旨い。あぁ何という旨さ。これは致し方ありません。牛の悲しみはあの肉の旨さです。 牛の目のピュアさに涙する人間が美味しい焼き肉をいただく業というものを感じずにはいられません。
うしうしうーし、うしうしうーし。
脱線はともかく、この映画に強く感じるのは時代の変わり目におけるノスタルジーです。
農耕に牛を使うことも、「嫁ぐ」ことが「生まれる」ことに匹敵するような動かしがたい運命であることも、仕事を辞めるときは死ぬときだという人生と労働を切り分けない考え方も、牛小屋も手作業の農耕も、全てが過去のものになろうとしている時代の貴重な映像です。
牛に引かれて国道を歩き病院に行くと、最新のCTが置いてあったりします。
そのアンバランスさは、物理的にも精神的にも大きな変革期にある国ならではの景色で、日本もほんのちょっと前に同じ経験をしてきました。
田舎にはあぜ道があり、牛がいて、昔の「身売りに等しい」夫婦の形態があり、古い考えの親世代と新しい考えの子供世代の隔絶があります。
描き出される映像の人間や牛や景色の中に、強いノスタルジーを感じないではおれません。