ドキュメンタリーや短編を撮っていたカルラ・シモン監督の初長編映画は自身の記憶を元にしたお話で、幼くして両親を亡くした都会育ちの少女が叔父夫婦に引き取られ田舎で暮らすことになる一夏を描きました。
2018年に公開していたのですが「悲しみに、こんにちは」とかいうエモい邦題のため敬遠する人もいたかもしれません(わしじゃわしじゃ)この映画は安易に想像しがちな感動ちびっ子ドラマとは異なる作風で、ナチュラル・ソリッド・ちびっ子生態記録的映画でした。即ち、ナチュラルに暮らしを追いドキュメンタリータッチで生態を観察するタイプの映画、「ポネット」や「明日の空の向こうに」や「プライズ」系統と言えなくもない、若干そっちに近い技法のちびっ子映画です。
ちびっ子生態記録的映画というわけではありませんが、ごく一部にそれを感じさせるスペイン名作映画と言えばご存じ「ミツバチのささやき」があります。「ミツバチのささやき」のアナが映画を見て目を見開くシーンは本当に映画を見せて驚愕するアナをナチュラルに撮ったと知られていますね。その部分だけはドキュメンタリーなわけです。スペイン名作映画史上に脈々と生きる技法で、「悲しみに、こんにちは」を撮った若手女流監督にもその血が受け継がれています。とかいうと無理矢理過ぎますので仕切り直します。
「悲しみに、こんにちは」は両親を失った6歳の少女フリダが叔父夫婦に引き取られます。バルセロナの都会っ子フリダがすんごい田舎に連れて行かれまして、いろいろ驚きなんかもあったりして、そこでの夏の暮らしを描きます。
カルラ・シモンの記憶に基づく映画だそうで、彼女は映画と同じく両親を失って田舎の親戚に引き取られた経緯があるのでしょうか。タイトルにもある通りそれは「1993年」のできごとです。
1993年?ついこないだやな、最近やな、と思う私やあなたは年寄りです。若い人にとって1993年は昔です。それは記憶と追憶に満ちた世界です。そして「悲しみに、こんにちは」はそんなノスタルジーに満ちた田舎の一夏を、自伝を越え、世代を超え、世界を越えて、誰にもに届く普遍性を伴って作品化できたのであります。遙か遠く東アジアのおっさんでもこれを観たら同じ郷愁に包まれるという、それほどまでの普遍性をソリッド・ナチュラル・ちびっ子生態記録的映画として完成させたことに尊敬の念を抱くのでありまして、映画の出来映えは見事としかいいようがありません。
さてストーリーですが両親を失いバルセロナからカタルーニャ地方の田舎にやってきた少女フリダです。叔父叔母夫婦はとってもいい人、その二人にはさらにチビの娘、天然最高ちび助のアナがいます。田舎には鶏がいたり羊がいたりキャベツやレタス畑があったりします。森と川があり、そこで遊びます。時に危険が待ち受けてもいます。田舎町には独特のお祭りなんかもあって異世界を楽しんだりします。そして時として都会っ子で我が儘で辛いだけのフリダは邪悪な心がもたげたりもします。
映画を見ながら心が6歳の少女になってしまった髭のおっさんでノイズと邪心の固まりである私も遠い記憶が蘇ります。夏休みには丹波の叔父叔母の家に一人旅で出かけ世話になるのが恒例でした。鶏や牛がいて、川でカニやタニシを捕りまして、インテリの叔父叔母夫婦に音楽や美術を、従兄弟には思想や自由を教えられ、たまに池にハマったり、時に邪悪な心で悪さをしてこっぴどく叱られ反省したりもしたものです。
ぽわわ〜んとそういう幼少期の記憶がこの映画を観た人全員に訪れます。カルラ・シモン監督の個人的な話であると同時に全人類に共通する普遍的なちびっ子時代の郷愁の物語でありまして、個人的な物語であっても強烈な普遍性を伴うとき、それは最早神話と呼べるのです。
映画のラストでは究極に神懸かったシーンを体験できます。どういう魔法を掛ければちびっ子にこのような演技をさせられるのかわかりませんが、これまで女流監督による魔法のような子供の演技をいくつか観た経験からいうと、これは魔法です。それ以外に考えられません。そんでもって「悲しみに、こんにちは」の魔法も一級品にて、ラストシーンで一気に胸を鷲づかみにされ、感情が高ぶり、場合によっては嗚咽が漏れるでしょう。はっきり言ってこの映画のラストシークエンスは映画史に記憶されるレベルだと思います。
郷愁の普遍性ともう一つ、監督個人の物語として重要なテーマも含まれます。両親の死因について、そして遺産を引き継ぐ娘のお話です。生き生きとした描写に込められた生死に関わるテーマは、登場人物たちの優しさとか生きるものすべてへの愛おしさとか、そういうのを感じさせてくれます。また、強烈に悲哀を込めたシーンも紛れ込みましたね。フリダがママの役をしてアナと遊ぶ「ママごっこ」のシーンです。「ママ、遊んで」「愛しい娘、でも体中が痛いから休ませて」
監督はこの映画でいろいろ受賞も果たしまして、次作への準備と同時に小中学生に映画を教えたりする活動も開始しているそうです。彼女にはきっと伝えたいことがあり、そのために躊躇している暇はないのだという意思があるように思えます。
くわしく知らないのですが、今では症状を押さえ込む良い薬があるのでしたっけ?1993年にはありませんね。悪質なデマや差別的な噂にもまみれていた頃です。この映画の中にひっそり横たわるこの病気についての物語が、映画とそれと監督の行動の積極的に生きる力に繋がっているように感じます。
「悲しみに、こんにちは」でした。
そしてここで終わればなかなか良いことを書いてるだけの感想文でしたが特筆すべき点があるのでまた余計なことを最後に書いておきます。それは煙草です。叔父さん叔母さん含め、みんな盛大にたばこを吸います。くわえ煙草で子供を抱っこします。煙草は日常であり生きること、人と人との関わり、大らかで自由、そういうものの象徴でもあります。1993年は差別主義者が人種差別の代替として煙草差別をスケープゲートにすることがまだ全面的には目立っていなかった頃です。素晴らしいたばこのシーンが目白押しなところが「悲しみに、こんにちは」の評価をぐんと押し上げました。