歌って踊って笑って泣いて、ドキドキハラハラわくわくと、全部詰まった娯楽の殿堂、それがインドの映画だと、思い込んではいけません。
ということで「裁き」のような尖った作品もあります。映画としてもいい出来だけど、このような映画が作られたということそのものも興味深いです。
裁判と裁判に関係する人々の映画
お話ですが裁判です。本作で裁判に掛けられるのは民衆詩人の男です。冒頭いきなりめちゃカッコいい歌のシーンからです。あれ?歌のシーンあるじゃん。ありましたね。
彼は確かに政治的なメッセージを込めた歌を歌います。かつては政治的な運動にも関わっていたらしいことが伺えまして、それで迫害といっていいような、理不尽にとっ捕まって裁判に掛けられます。逮捕の理由は、彼の歌を聴いて悲観して労働者が自殺したからというのです。
何ですと。何ですかそれは。という掴みもバッチリです。
で、しかしこの映画は裁判モノの映画であるとは言えません。主に裁判を描きますが、裁判と関わる人たちを群像劇っぽく描きます。それともうひとつ、インドの地方裁判所の実態をあからさまに描くという試みでもあるかもしれません。
この映画に登場する裁判所はすごく面白いです。面白がってる場合かというほどに面白いです。ざわついていて、何だか適当な感じを受けますし、経済発展したインドであっても、田舎ではまだこのような田舎くさいいい加減な裁判が普通に行われているのでしょうか。この裁判の有りようがリアリティある姿なのか実際とはぜんぜん違うのか、あるいは過去そうであったのか現在でもこんなのがあるのか、どうなんでしょう。ほんとのところはまったくわかりませんが、とにかく興味深いです。
裁判に掛けられる詩人よりも判事、検事、弁護士を描き倒します。彼らの日常を捉え、その暮らしぶりを自然体で表現します。これがまた面白くてたまんないのですよ。裁判とはぜんぜん別ものみたいに彼らの日常を追うという試みは効果絶大です。観ているこちらは彼らの日常を面白がりつつ、ふと日常と乖離した裁判について考え込んでしまうからです。
制度と制度を生業としている人間たちです。世間話の日常と理不尽な裁判の進行が並列に描かれて、ある瞬間ちょっとばかし戦慄したりします。
端的に、この映画が何であるかと述べるとすれば、それは人権を尊重しない理不尽で前時代的な田舎裁判の実態であり、同時に、ジャンル映画であることを拒否する登場人物の群像劇です。映画的にはワルモノである検事の女性は、日常ではとてもいい人で穏やかな主婦でもあります。
先進映画の百貨店
裁判と群像劇だけでもお腹いっぱいなのに、さらに追い打ちを掛けられます。歌を聴いて自殺したとされる労働者の存在です。弁護士が被害者宅へ調査に赴き、そこで目撃する情景に動悸が乱れます。さらに、その労働者の妻が裁判に登場するころには、この映画のあまりの多重っぷりに目眩を起こしそうになりまして、これ大変です。
あれこれと考えが渦巻きます。最もつまらない話をすると、インド映画は娯楽の全部を詰め込んだような娯楽映画の百貨店の作品が多いことはよく知られています。でもこの「裁き」は娯楽映画の要素があまり見当たりません。その代わりに文芸調といいましょうか、リアリティと突きつけ系の尖った映画の特徴を持っています。しかも盛りだくさんに持っています。これはつまり、先進的映画の百貨店です。やっぱインド映画ったら。
馬鹿馬鹿しい話はいいとして、ほんとに複合的な要素をたっぷり持っています。こちらの感情も揺さぶられます。制度、制度で働く人、その人の日常、インドの田舎の日常、貧富と格差、新しい人古い人、発展から置き去りにされた田舎、時代の狭間、狭間の端と端、労働、労働者、ノスタルジー、たまんないです。
さらにこれに映画技法に関する実験的テイストや裏をかいた仕組みまであります。エンディング近くの構成の妙技ったら実に小憎たらしくてとてもいいです。
主な人
弁護士
この映画が作られた頃はめまぐるしい経済発展の渦中にあり、変化が激しい時代です。物や金だけに留まらず価値観の変遷も含まれます。
弁護士は経済発展の恩恵の中にいるハイカラな人間で金持ちです。車でジャズを聴きます。クラブにも行きます。美容院で水蒸気を顔にあてます。人が資本主義社会で金を手に入れると、余った金を無駄なものに使います。無駄は悪くないですよ、でも流入する他国の影響を受けアホみたいだなと感じることもあります。
余裕ができると無駄遣いもしますが文化レベルもアップし知識と教養も得ます。弁護士は理不尽な差別的価値観に疑問を持っており、そして弱者の味方です。車でジャズを聴くのと同じように虐げられている労働者を気遣います。
労働者
労働者は経済発展の恩恵で奴隷的に仕事を得ます。長屋に暮らし、安全対策の成されない職場で働き死の危険と直面しながら低賃金で働きます。その妻は裁判所で自分の年齢を訊かれても答えられません。
気の毒に感じた弁護士がお金を恵もうとしますが妻は拒否します。「お金はいらない。仕事をください」
検事
検事は見ていてムカついてくるような執拗な攻撃を裁判で繰り出しますが日常はごく普通の営みを行う庶民です。中間の層です。晩ご飯を作り、世間話をします。彼女の暮らしは真っ当で、仕事の時だけ鬼みたいなやつになりますがそれは単に仕事なのであって彼女の良心とは無関係です。このことは、判事のパートでより明確になります。
裁判官
判事の休暇のエピソードがどういうタイミングで出てくるのか、映画技術的にも特異な点となっていますね。
詩人
詩人の描き方がめちゃクールでイケてます。というのも、あまり描きません。この人は何かを象徴するような登場の仕方で、この人そのものをほとんど描かないことでその周辺を描き込みます。でも歌かっこいいし、存在そのものもカッコいいです。やたら目の敵にされて、悲惨でもあります。この詩人は何でしょうか。これは捨て去られたインドの大衆ですか。経済発展と無関係に良心のみで生きる時代の邪魔者ですか。彼は時代に反撃できますか。
余裕から生まれる映画
さて、プチブル弁護士は経済発展に伴う恩恵を受けまくり外国の影響も受けまくり、車でジャズを聴き弱者救済の余裕も出てくるし変な水蒸気を顔にあてることすら文化的な暮らしであると認識しています。この彼は映画そのものにも当てはめられます。
最初の経済発展で庶民は映画を観るという無駄な娯楽を手に入れます。このとき作られる映画は大衆が喜ぶ楽しい映画です。唄って踊ってハラハラドキドキして見終わって庶民が「あー楽しかったー」と笑顔になる映画です。
さらに金を手に入れると、そういう映画だけでは満足できなくなってきて、考え込まされるような映画や辛さに悶えるマゾ的映画に目を向けるようにもなります。
日本でも同じですね、ミニシアターに通う映画通たちは基本お金に余裕があるプチブルばかりです。一般の貧乏人は映画一本の支払いにも勇気がいりますから確実に楽しさが保証されているようなのを年に一度見るのがせいぜいです。
ミヒャエル・ハネケはかつて崩壊するプチブル家族の映画を連続して作っていました。このとき「自分の映画を観るような層はまさしく自分が映画で描いているプチブル層である」と語りました。
「裁き」の存在そのものがインドの経済発展のたまもので、より高度な映画を求める文化の土壌が醸成されてきた上で成り立つとも言えます。
弁護士が顔に水蒸気をあてるの同じように、インドでは「裁き」のようなタイプの映画が求められ作られるのだいう、そして発展の途中であるときには得てして極端に走ったりもするわけで、そういう時代というものが「裁き」の誕生と無関係ではないと思うわけです。
これは映画に限った話ではなく広く文化そのものについての問題の投げかけでもありますね。変な音楽や難しい書物も同じです。食うにも困る貧乏人がわざわざマゾ映画見たり心掻き乱すノイズ音楽を聴いたり哲学に没頭したり政治を分析したりしますか。これらの存在そのものが、車でジャズを聴き顔に水蒸気をあてる行為といったい何が異なるというのか。
時代の狭間
経済発展の狭間で、捨て去る古い価値観と新しい価値観の混在するコンプレックスを描いたような映画がこれまでにもありました。
古いものが良いってわけではない、しかしかつて世界はこうであった、それは失われるもので、失われる物には郷愁を感じるものです。
「殺人の追憶」や「マーシュランド」や「UNIT7」や「夢幻百花」が描いてきたことと同一のものが「裁き」にも感じられます。
映画の最後のほうで、下町の印刷所のシーンがあります。印刷物が乱雑に積み上げられ、巨大な裁断機があります。
私は子供の頃裁断機が置かれた似たような工場で暮らしました。裁断機で職人が指を落とした話に震えながらもその機械を操作するのが楽しくて、裁断した後の細長い端材の束が好きでした。今ではあんなタイプの工場ほとんどないし、子供が裁断機に近づくこともゆるされないでしょう。指を多少切ることはあっても、あの環境は大事でした。
私は印刷所のシーンで震えましたが、個人的体験によります。同じように、労働者の長屋シーンや、検事の暮らしや、あるいは判事の休暇シーンで、またインド人のあなたなら煩雑な地方裁判所、裁判所があるロケーションそのもの、詩人が唄うステージと広場、広場のすぐ横に立ち並ぶ高層アパートのビルディング、そして古いタイプの代表みたいな詩人の飄々とした態度、そういったシーンの節々で心震えるかもしれません。
監督は若い人で、さまざまな先進的映画の影響を見て取れます。それらを吸収しインド映画っぽくまとめて詰め込んで先進映画の百貨店のような「裁き」を作りました。「裁き」からもう5、6年経ちますから、監督の次の映画は「裁き」ほどの攻撃性はないかもしれません。この映画そのものが歴史のひとつであり通過点な位置にあるかもしれませんがまだ判断できません。
もうひとつ、若い監督を擁護するのですが、彼はここで私が妄想炸裂させている事柄に対しては第一義としていないことが受け取れます。
監督はもっと純粋に理不尽な法廷や人権について、正義や悪で括れない職業人のリアルについて描くことに注力しています。出演者の選別についても拘りが感じられます。決して斜め上の目線から文芸的に映画を捉えているのではなく、もっとリアルで政治的と言えるかと思います。そのあたりの真面目さが伝わるのが「裁き」の好きなところでもあります。
監督の興味深いインタビュー映像があったので貼っておきます。英語字幕出してさらに日本語翻訳にすると英語が苦手なあなたや私にもぼんやりと内容が掴めます。
「裁き」でした。