「ボラット」を観た人なら吃驚仰天です。この人とあの人、同じ人ですか、って感じの大変身。目を剥くところやオカマの演技はエリック・アイドルをちょっと思い出させるユダヤ顔のキャラクターです。ゲイへのなりきりや悪趣味の極限を行く下品ギャグは極端派の威厳ですか。かなり気持ち悪いです。
「ボラット」ではいくつかのシーンがフィクションであったのに対して、本作のドッキリ部分は全て本物で仕込みはないらしいですよ。まじですか。
観ている間は、あまりの荒唐無稽さとおぞましさに「これはさすがに仕込みやろ」と思わないではおれないんですが、本物のドッキリと聞くと驚愕します。
70年代に「モンティ・パイソン」を生み出したイギリスのインテリコメディは 21世紀になってこのような身の毛もよだつ究極の下劣ムービーを生み出すに至りました。感慨深いです。ちなみにサシャ・バロン・コーエンもケンブリッジで歴史を学んだインテリです。
このような男が性器ドアップでぐるんぐるん回したりするのだから良識ある一般人が引いてしまうのは当たり前ですね。
映画表現を突き詰める徹底的な姿勢を高く評価します。
さて、とはいえ個人的には「ボラット」の突出ぶりに対して本作は今一歩の印象を持ちました。
それは決してゲイネタの下品さに萎縮したわけではなく、 次のような理由によるのではないかと思ったのですが。
「ボラット」ではカザフスタン人ジャーナリストに扮することによって人種問題、中東問題、アメリカ人の病理、歴史、コミュニケーション不全などをネタに笑いを作りましたが、「ブルーノ」は主にゲイネタ下ネタで人間の良識に挑み、心理面を突き刺す作りです。
極端に言えば外的世界と内的世界のテーマの違いです。
多分、私個人が映画としてアウターよりのものを好むから「ボラット」が面白く「ブルーノ」が物足りなかったのでしょう。
外的世界ネタより内的世界ネタを好む人にとっては「ボラットはいまいちだったがブルーノはひっくり返って大笑い」なんて人もいると思います。
もうひとつは、ドッキリネタに関して、多分「ブルーノ」がパワーアップした結果、採用すべきネタが多すぎて前後の流れを編集でカットしてしまい、ひとつひとつのネタが短く、印象に残りにくいものになってしまったのではないかと。
そんなわけで、やはり問題作となった「ブルーノ」、こいつはとてもじゃないが多くの人にお奨めできない特殊な映画です(笑)
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