MovieBoo的には「ル・アーヴルの靴みがき」が言わば究極でありまして、もうアキ・カウリスマキはここにすべて表現したという認識です。「ル・アーヴル」の次にどんな映画を作るのかとても興味がありましたが、「希望のかなた」はいろんな意味で「ル・アーヴル」と対をなす、というか反対の映画と感じまして、それはどういうことか。こういうことです。
まずテーマはちょっと似ています。今作も移民のお話です。同じ移民を扱いますが、その扱い方の違いは明白です。「ル・アーヴルの靴みがき」では、コミカル設定とファンタジーの中にとんでもない社会告発を含ませました。「希望のかなた」では深刻な移民問題を扱ったようなふりしてその内容は気軽で楽しい物語です。
すでに告発と警鐘と悲鳴は「ル・アーヴル」で描き倒しましたので、「希望のかなた」では過去作品を彷彿とさせる垢抜けてコミカルな物語を徹底させた感じです。気軽で楽しい小さな物語です。
ただし、この楽しげな小さな物語は、社会から目をそらし何も問題がないふりをして小さな身の丈の幸せに浸り他人の不幸を蔑みながら己の利益だけを享受して税にいる「おいしい生活」的で悪徳政府の犬みたいな態度であることとは正反対です。このことは結果的に表面上似ているようなところがあるかもしれないので、というか、そういう物語として受け取る人間もいそうなのであえて強く言っておきたいところ。
「ル・アーヴル」と共通する技法ももちろん継承されています。それはファンタジーです。ただし「希望のかなた」のファンタジーは過去です。
過去にあったレストラン、過去にあった労働者たち、過去にあった生活する人々です。「希望のかなた」のレストランは夢のレストランです。でもあんな店は今では存在できません。あんなふうな良いレストランがあったのは過去なんです。店内で気分良くたばこが吸えてくつろげるレストランという空間はすでに過去のものです。人々が助け合う姿が普通であったのも過去のことかもしれません。
同時代性というものが芸術家に広く息づくときがあります。アキ・カウリスマキ監督が「ル・アーヴルの靴みがき」を作った頃、ジム・ジャームッシュは「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」を世に問うたのです。絶望の悲鳴が聞こえるこの二作の共通点を今頃語るというよりもその次の作品に共通点を見いだせるのが注目すべきところ。アキ・カウリスマキ監督が「希望のかなた」を作ったように、ジム・ジャームッシュ監督は「パターソン」を作りました。
「希望のかなた」と「パターソン」の共通点は、うっかり間抜けな見方をすると、おいしい生活的な「小さな幸せと小金が一番大事なの。世の中に問題なんかないの。素敵なの。文句ばっかり言う人ってばかなの」みたいなことを言い出すやつが現れかねないという部分かもしれません。しかし実際はそんな底抜けの愚作なんかではもちろんありません。
もの凄く捻くれた見方をするとすれば、これら作品の垢抜けて楽しい小さな物語は、より大きな絶望の中で僅かな希望を見いだすしかない小市民の声なき悲鳴と言うことだってできます。これは世の終わりの絶望の曠野で馬の面倒を見てジャガイモを茹でて食べることを続けるような、即ち感情を放棄してルーティンに埋没する神なき後のさらに「ポスト絶望」の物語かもしれないのですよ。
アキ・カウリスマキの「希望のかなた」です。前作「ル・アーヴルの靴磨き」では愛の物語に移民の問題を捉えた傑作でした。「希望のかなた」は移民の物語に社会の有り様を示す傑作です。
「希望のかなた」のレストランはもちろん喫煙可能なレストランで、レストランとして完璧です。
これでもかと登場する素晴らしい喫煙シーンに釣られて煙草が吸いたくなり、映画館で見ていて悶え苦しみます。あぁこんなに苦しいのなら劇場なんぞに出向くんじゃなかったDVDを待っておうちでゆっくり見るんだったと後悔するかというとするわけありませんけど。
神経症的全体主義者的に喫煙を嫌悪する人たちがこの映画を見たら卒倒するでしょうか。嫌煙の連中はアキ・カウリスマキなんて嫌いだろうから彼らがこの映画を見て怒りに身を震わせる事なんかはありませんよね。見もしないから。知らんけど。