シークレット・オブ・モンスター

The Childhood of a Leader
独裁者の幼年期を描くという映画「シークレット・オブ・モンスター」はブラディ・コーベット監督気合の一本です。最初興味ありませんでしたが興味が出てきたので観ました。この映画の感想、それはもういろいろ複雑です。
シークレット・オブ・モンスター

感想として複雑なんです。映画は複雑ではありません。「シークレット・オブ・モンスター」について何か書くとき、どういうことを書きたくなるでしょう。それがわりとたくさんあります。バラバラにたくさんあるので羅列みたいになりかねません。そんなに素晴らしい映画なのか!と言われればそうではありません。良かったのか悪かったのか、それすら一言では言えないんですね。うだうだ言ってないで羅列しましょうか。

心と体は別なのさ

映画を見る時、つくり手に感情移入することが多いんです。もしブラディ・コーベット監督がインタビューで偉そうなことを言っていたとすれば、「シークレット・オブ・モンスター」の感想はとても否定的になったと自分でも予想できます。

でも何だか人となりが垣間見れたりして、好感持ってしまったから何でも許せてしまったりします。

「映画について監督が事細かに解説するものではない」そうでしょうそうでしょう。「でも初長編映画だし、できるだけ親切にみんなにお伝えするよ!」かわいいっ。好感度アップ。

監督はがんばった

まず監督はこの映画にいろいろと思いの丈や学んだ成果や知見や考え方やそれはもう事細かに詰め込みまくったんですね。それはわかります。作った人にとってシーンのすべてに意味とこだわりがあります。それは当然そうでしょう。

マニアや評論家はいろいろと語ってくれるマシーンです。暗喩や配置や映像や尺、言葉や意味やリスペクトや批判、奥深そうな文芸作品なんかではみんながこぞって分析したり解説したりします。

監督もこだわり抜いたんだからほんとはそうやって解釈してほしいんですね。1秒のシーンでさえも、遠くのかすかな会話の中にも、たっぷり魂を込めてますからね。でも誰も語ってなんかくれません。「偉そうに自作を語るカッコ悪さ」も熟知していますね。それもあって、結局は謙虚さとサービス精神が優先します。謙虚さとサービス精神を恥じない気持ちはかっこ悪くないのです。

この揺れる監督の気持ちを考えるとどうしても好意的に映画を見たくなります。

監督のこだわりの何百分の一も自分はわかっていないと思いますが、わずかなところに垣間見える目標値の高さってのは伺えます。

ラース・フォン・トリアー

ちらっとどこかで読んだのですが、ブラディ・コーベット監督はドグマ95について言及していますね。言わずと知れたラース・フォン・トリアーたちが始めた映画運動ですね。

「シークレット・オブ・モンスター」は基本トリアーで出来ています。

などと言うと監督ブチ切れて絶交されそうですが友達でないので堪忍してください。

「トリアーみたいに撮りたい」と思うこと自体は素晴らしいことです。まずトリアーのドラマ作りとその演出がどれほど優れているか知っているということですからね。

節々に見えるドグマ的というかトリアー的な撮り方です。頑張ってやっています。私もブラディ監督もこういうのが好きなんです。わかりますよ。すごく伝わります。

で、それができているのかという話ですが、それについての感想は差し控えたいと思います。決して表層をなぞってるだけとは思いません。そんなつもりは監督にありません。ですので思いませんよ。思っていません(ちょっと思ったらしい)

映画はフィルム

これもどこかで監督の言葉として読みましたが、フィルム派なんですってね。「映画はフィルムでしょう!」と。マニアですね。監督は若い人ですが、若さゆえのマニアックなこだわりというものもあると思います。

確かにフィルムならではの素晴らしい映像が堪能できたような気がします。というのも、日本ではフィルム上映できる映画館がほとんどないからです。

スタッフに凝りたい

スタッフにもいい人材を起用したいところ。志の高い映画には実力あるスタッフが必要です。

撮影のひとは「さざなみ」も撮ったロル・クロウリー、美術には「愛、アムール」のジャン=ヴァンサン・ピュゾを起用しました。プロデューサーの力もあると思います。でも監督の志も伺えます。

実際、映像の威力は強かったですよね。そして主な舞台となる建築や内装、見ごたえが十分にありました。素晴らしいスタッフに恵まれました。

 

キャスティングで凝りたい

信頼の演技、物語を委ねる個性、人をうならせるキャスティングも目指しました。

ステイシー・マーティン

「ニンフォマニアック」で強烈な印象を残し、その後も着々といい映画に出演しているステイシー・マーティンです。フランス語を教えるお姉さんの役でしたね。個人的な話で恐縮ですが、近頃ステイシーばっかり観てるような気がします。狙ってるわけではなくて、観たくて観たらステイシーがいるんですね。最初は「若いジョー出た!」って思ってましたが近頃はちゃんと「ステイシー出てる!」ってなります。もしや、運命の糸で結ばれてますか。

ベレニス・ベジョ

ベレニス・ベジョはちょっと厳しいママの役ですね。「アーティスト」で可愛らしいヒロインやって印象に残りました。「あの日の声を探して」で泣かされました。「ある過去の行方」も良かったですよ。ハイセンスな起用かと思います。

ヨランダ・モロー

メイドの役でしたね。私ヨランダ・モローも大ファンなんです。「出た!」ってなります。「アメリ」で初めて認識しました。「ベティの小さな秘密」や最近では「神様メール」で美味しい役をやりましたね。ただの気のいいおばさんじゃなく、ちょっと精神的な危うさも秘めている独特の役柄がよくお似合いです。

「シークレット・オブ・モンスター」では気のいいメイドのおばさんって感じの役でした。でもね、最後の出演シーンで強烈なセリフをひとつ言います。

これだけははっきり言います。「シークレット・オブ・モンスター」中、最も素晴らしいシークエンスがこれです。私はこのシーンのこのセリフがあるから「シークレット・オブ・モンスター」を貶したくないんです。そもそもこんな良いシーンがひとつでもあればそれは良い映画です。

独裁者の子供時代

虚構というものを考え抜いた設定だと思います。

第二次大戦の独裁者と言えばヒトラーかムッソリーニですね。この場合ヒトラーのほうがより一般的なイメージに近いと思いますが、この独裁者を架空の独裁者ということにして、その子供時代を描くという虚構です。これほんの少し難しい設定ですね。ヒトラーであってヒトラーではありません。そして話の大元のネタはムッソリーニのようです。

元ネタがあったり、総合的な分析の結果である架空ネタだったり、そしてその背後の物語はやたら忠実に歴史に則っていたりと、高度なSFのような作りの脚本となっていますね。これ自体には感心します。

こうした事実と虚構の複合的な合体の末の「シークレット・オブ・モンスター」です。そうしたバックボーンの上に、あえて細かい物語、ドグマ的なギリギリの人々の話を描こうとしました。

監督の目論見がどれほど成功しているかはわかりません。役者もいいってのがあって、人々のドラマはよくできていると思います。食らいついて見る威力がたしかにあります。ただ、もっと高いところを目指していたはずだという思いが拭えません。

残念に思ったこと

正直なところ、せっかく面白く見ていたこの映画の印象が良くないのはオチの独裁者シークエンスのせいです。

なぜあんな余計なシーンを最後に持ってきたんでしょう。あのシーンのせいで、せっかく虚構と史実の混乱を楽しんでいたのに一気にアホみたいな気分になって冷めてしまいました。「志の高い映画と思っていたのは勘違いなのか」と思いそうになったくらいです。

実際のところ監督の意図がどのようなものなのかわかりません。本当に私が過大に誤解していただけで、結局あのオチみたいなヒトラーにはユダヤの血が、的な映画にしたかっただけなのかもしれないし、もっと別の意味を込めたかったのかもしれません。さっぱりわかりません。

そうそう、ラストの独裁シークエンスではカメラがグルングルン回るすごいシーンがありましたね。あれ面白いですね。しかもフィルム撮影でしょ?よくあれだけ回しましたね。あれはすごいです。しかもしつこいです。あのしつこさは支持します。

でもって、ギャスパー・ノエですかと。

公式・字幕

オチが妙だったことにより、そもそもからして妙だったことを思い出します。

映画の冒頭、第一次大戦の映像なんかが流れますが、ここで余計な字幕が入ります。歴史的な映像について解説する見出しです。見事に映画を邪魔してアホの子のように扱う劣悪な字幕でして、冒頭いきなりこのへんな攻撃で「何これ」と小さく声に出してしまいました。

映画の最後、エンドクレジットで「冒頭の解説は日本語字幕の親切設計です」みたいな言い訳の字幕まで飛び出す始末。言い訳するくらいならやめておけ。

そういえば字幕と言えば最後の会議シーンの字幕の位置がひどかったですね。あれも声を上げそうでした。広いエントランスみたいなところで会議する男たちに思いっきり字幕がかぶさりまして、映像台無しなんですよ。ひどすぎて笑いますよ。今時の字幕って、昔と違ってやたらでかくて太いですからね。映像を消します。監督がこれ見たら卒倒するでしょう。

という配給側の人を馬鹿にしたような態度が集約されているのが公式サイトや広報かもしれません。

公式サイトは監督の言葉も載せていていいところもあるんですが、何だかこの映画を全然違う映画みたいに嘘宣伝しています。まるでミステリーかスリラーみたいな扱いですよ。予告編編集もそんな感じで、ちょっとこれはどうかなと思います。

何だか「アホをだまくらかして客寄せしてやろうぜ」って感じの若干悪意ある広報ですよね。

というか、公式とか宣伝とか、映画自体とは何の関係もないのでどうでもいいといえばどうでもいいんですが。

The Childhood of a Leader

それで結局「シークレット・オブ・モンスター」はどうなのかと。

どうなんでしょう。いいところも多いし、映像もいいし、トリアーには遥か及ばないにしてもドグマっぽい演出も悪くないです。ヨランド・モローの最後のシーンが素晴らしいし、ステイシーもいい。でもオチのシーンはいらん。肝心の子役ですが、特筆することはありませんでした。

という「シークレット・オブ・モンスター」の感想文でした。

紫煙映画を探せでは一足先に「シークレット・オブ・モンスター の煙草シーン」でたばこシーンについて書いていましたがや遅れてこのブログでも感想書きました。。

注: 紫煙映画を探せ を停止してMovieBooに統合します。紫煙映画の記事はこのようにコラムとして混ぜ込むことにしました

 

コラム 紫煙映画しicon 紫煙映画を探せ

シークレット・オブ・モンスター の煙草シーン

「シークレット・オブ・モンスター」の序盤には苛ついたママが煙草を吸うシーンがあります。かっこよく吸いますがイライラの表現でしかないのがちょっと惜しいところ。

シークレット・オブ・モンスターSS

ぎりぎり間に合った「シークレット・オブ・モンスター」です。本家Movie Booでもまだ書いていないのにこっちを先に書くとは無礼千万。

本編でも他の部分で何度か煙草のシーンがありますが、時代設定(第一次大戦後〜第2次大戦前)の割には喫煙シーン少なめです。この時代しかもフランス人ならのべつ幕なし吸っていてもおかしくないのに。

なんと映画を喫煙シーンだけで語るというのがいかに馬鹿らしいかよくわかります。

ところでこの映画にはヨランド・モローやステーシー・マーティンなどお気に入り女優が出ていてお得でした。監督はラース・フォン・トリアーやギャスパー・ノエが大好きっぽい気持ちを隠しもせず、なかなか愛らしい映画でした。

ベレニス・ベジョは「アーティスト」でとってもかわいい女性を演じて注目の美女でしたね。「あの日の声を探して」や「ある過去の行方」など、良質の映画によく出ていますが、どちらもMovie Booに感想をまだ書いていない上に書く時期を逃してどうしましょうっていう作品ですので困りました。ベレニス・ベジョは「シークレット・オブ・モンスター」ではちょっときつい役でしたよ。

という話は本家でしなければ。公式や広報の悪口も近いうちにMovieBooで書きますね。

とりあえず紫煙映画としては序盤ベレニス・ベジョのタバコを吸う姿がビシっと決まっていたし、中盤のシーンではこちらも一緒に吸いたくなる威力がありましたので、まあまあというか良しとします。

一緒に吸いたくなる気持ちにさせるのは紫煙映画としての評価としては褒める言葉となりますね。

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