スペイン北部、バスク州のビスカヤ、ゲルニカという街は文化伝統と自由独立の象徴でした。象徴的なオークの木の下に人々が集い自治を行う小さな街。ジャン=ジャック・ルソーは「ゲルニカは地上で一番幸せで賢明な人が住んでいる」というようなことを書いたそうな。
このゲルニカにドイツ空軍が無差別爆撃を行い、歴史に名を刻みました。この爆撃、焼夷弾が本格的に使用された世界初の空爆だったとのことです。
スペインの内乱なのにドイツが空爆?不思議に思う人いますか。いたら手を挙げて。はい。そうですね。内乱ですが純粋に国内で争ったというような簡単なことではありません。大抵の内戦や混乱と同じく、大国の代理戦争の形相を帯びていますね。スペインは共和政が設立していましたが民衆の不満もあり、左派と右派で揺れに揺れて政局不安、大国がそれぞれのチームに肩入れします。ソ連とドイツですね。共和国政府にはソ連、フランコ率いる反乱軍側にはドイツがバックに付き、それぞれが援助して戦いを煽りまくり、さらに国内は分断されます。
映画の中でとても大事なこととして描かれるのは、ソ連の共産主義国らしい圧力とフランコと組んだドイツ軍の非道をどっちがよいとかどっちがましとかいうレベルで描いていないところです。どっちもろくでもないわけです。
内戦がフランコの勝利に終わって30年以上にわたり軍事独裁政権の悪夢を見ることになるスペインです。フランコ=ドイツ=空爆の地獄絵図のゲルニカを描くに当たり、じゃあかといってソ連の配下にあるのが幸せかというとそんなわけないのでして、つまりのどかな田舎をネタに強者どもが何をやらかしているのかという理不尽、これに尽きるわけです。
大昔、スペイン帝国は中南米で悪辣の限りを尽くした大国でした。それがいつのまにか共和政ののどかな田舎町みたいなことになり、因果は巡りますが当時の人々には関係ありません。
ゲルニカの悲劇は世界に伝えられ、パリに住んでいたパブロ・ピカソの耳にも入ります。当時、共和国政府からパリ万博の壁画製作を依頼されていたピカソはすぐさまこれをを描くことを決定し「ゲルニカ」を完成させ軍部を強烈に批判、後にフランコが政権を取ったとき「独裁政権であるかぎり二度とスペインに帰らない」と宣言、実際死ぬまで祖国に帰ることはありませんでした。
ポール・エリュアール、ルネ・イシェなど、詩人や芸術家も作品を製作し爆撃やそもそものファシズム批判を行います。
余談ですが受け狙いの炎上商法が得意なコマーシャリストのダリは「フランコを断固支持する」と宣言したりブニュエルのアメリカでの就職を邪魔したりレーニンを茶化して芸術家仲間から総スカンを食らったりしました。そのくせ「内乱の予感」なんてのを描いたりしていました。
ということで映画「ゲルニカ」ですが、スペインにとっても最重要歴史項目のこの事件を軽々しく作ってはいけません。やるからにはちゃんとやらねばなりません。
えーと。
映画「ゲルニカ」では、この田舎町の爆撃を世界に知らしめたアメリカ人ジャーナリストの話に軸をしぼります。アメリカ人ジャーナリストと、検閲係の担当官、この二人のですね、愛のロマンスと爆撃の悲劇を、その、あの、英語のドラマで、その、あの、やります。アメリカ人ジャーナリストは絵に描いたようなよくあるジャーナリストで、つまり過去に栄光があり、何かどこかでヘマをやらかしたのがトラウマになって自暴自棄、捏造記事などを書く堕落した記者と成り果てますがゲルニカ滞在中に徐々にその、あの、目が覚めてですね、一所懸命やりますが妨害が入ったり、そういう、あの、ええと、それで検閲官は美女で冷たい女ですが徐々にですね、ジャーナリストに惹かれたりして、正義の、あーと、えーと、やがて恋に、やがて悲劇に。まあええわ。書かなくてもわかるでしょ。そういう感じです。そのまんまです。
ちょっと映画の内容について何か書くとよからぬことがおきそうなので別の話に逃げますが、スペイン側の美女をやってるヒロインがですね、我らがマリア・バルベルデです。検索から訪れるMovieBoo読者の9割が読んでいる「バスルーム 裸の二日間」でお馴染み、マリア・バルベルデです。この女優ががんばります。英語でがんばります。もうそれだけで十分です。OK。OKということにしたいのです。
往年のハリソン・フォードのパチモンみたいな主人公ジャーナリストを演じたのがジェームズ・ダーシーで、この俳優には本当はよい個性もあります。「ドット・ジ・アイ」などの曲者役なんかぴったりでしたね。「ゲルニカ」では二枚目主人公の役を与えられました。
マリア・バルベルデこそが本作のキモですが、もうひとり新しい女優がいました。姪っ子イザベル役のアイリーン・エスコラールという女優さんです。
「ゲルニカ」の出来映えがどうであれ、アイリーン・エスコラールを知ることになったのでよしとします。
どうにも奥歯にものが挟まったような言い方をしていますが、それはこの映画を貶したくないからです。何か書くとヤバいので避けています。
製作、監督、そういう面々を追っていくと面白いことがわかります。彼らは映画の巨匠でも文芸派でもなく、サスペンスや娯楽アクションなどを作ってきた人たちのようなのですね。監督のコルド・セラはゲイリー・オールドマンを主演にアクション映画を撮っているような方ですが、とはいえ一気に歴史大作を撮るような人たちとは到底思えません。このことを知って、二つのことを想像しました。
職業として娯楽作品を撮ってきた人たちではあるが、ほんとは自分だって素晴らしい名作映画を作りたい、そんな気持ちをずっと持っていたんじゃないかと。
もうひとつ、やがて願いが通じ晴れて名作映画を作ることになったとき、これまでの仕事の中で癖として染みついた安っぽさから逃れることが出来なかった哀しみに打ちひしがれてるんじゃないだろうかと。
この映画は気合い入っています。間違いなく気合いもガンバリも入ってます。一所懸命作ったのは間違いないです。マリア・バルベルデも相当な気合いを入れて演じていますし、映画の中で突出した存在です。それから撮影はとても良い仕事しています。カメラの動きや構図の決め方は一級品です。でも根本的にですね、そのー、あのー、あ、今思いついた。これはこれでOKの理由です。
昨今、我が国でも戦争の記憶がすっかり薄れ、戦争を語る年寄りもどんどん死んでいき、うっかりすると頓珍漢な話がまことしやかに語られる時代に突入しました。たとえばある子供は日米の戦争を知らないとか、どっちが勝ったか知らないとか、日本が何をやって来たかとか、知らない人や歴史を歪曲する人もいます。ほんの数年前の事件であっても現実歪曲スペースに逃げ込み事実があやふやになるデマや神話が幅をきかせ大事な歴史が消えゆく現象が起きています。
もしかしたらスペインにおいてもゲルニカを知らない子供たちが育ってきている可能性があります。そういう子供たちに事件のあらましだけでも伝える作品が必要ですね。「ゲルニカ」にはその役割があります。少年少女たちにゲルニカを伝える、ゲルニカを知るきっかけを与えるのが本作の重要な仕事です。
そう考えれば類型と無個性に陥ることすら必要があることなのかもしれないなとちょっと思います。
最後にもうひとつ。原題の「Gernika」ですが、はて Guernica ではなかったのか?と不思議に思って調べてみたら、Gernika はバスク語でした。
こんなところにもこだわりを持って付けられたタイトルです。あぁ、内容にももう少しこだわりが・・・いやいや、何も言いません。
いずれにしろ、本国での公開からわずか2ヶ月で配給してくれたことに感謝と敬意を表します。