「エンター・ザ・ボイド」以来のギャスパー・ノエ新作とあって何事かと思ったら「LOVE」は純然たる愛の映画でしかも3D。愛の映画で3Dと言えばゴダールの「さらば、愛の言葉よ」がすでにあります。もともとゴダールの格好良さにも強い影響を受けてるっぽいギャスパー・ノエ、「さらば、愛の言葉よ」がすでにあるのに何でわざわざ愛の3Dを作ったのか、そこんところに興味がありましたが、「さらば、愛の言葉よ」がすでにあるのだからして実を言うと全く興味が持てませんでした。
愛の映画で露骨な性描写が売りなのかどうなのか知りませんが、過激な性描写と言えばすでにラース・フォン・トリアー「ニンフォマニアック」があります。それ以前にもいろいろあります。にもかかわらずなんでまた性描写たっぷりの愛の映画をわざわざ作ったのか、もちろん「ニンフォマニアック」とはあらゆる意味で全然違う映画だし関係ないのだけれども世間というのは内容がどうあれ「過激な性描写」にだけ食らいつくもんです。
どんなジャンルでも大好きな映画小僧の筆者ですが愛の映画はわりと苦手なほうです。苦手というか、あまり積極的になれないんですね。
さてそんなわけで全体的にはあまり興味の持てぬまま3D上映もパスして普通に拝見することにしました。で、観た結果ですが、まさしく愛の映画でした。
愛とか恋とか言うけれど、その実態は体と体、粘液と粘液のねちゃくり合い、相手を貪り喰らい尽くす野蛮かつ神懸かった生命の根源にせまる行為に直結するのでございます。フランスは映画大国と同時に愛の国でありまして、こうした愛の行為を直視した愛の映画にも満ちています。その流れで、ギャスパー・ノエはラテンの血を引く男ですが実にフランス映画の正統な継承者と言えるわけでもあります。
「LOVE」の内容は愛を思い出す短い時間にいるうじうじ男の思い出話です。愛の日々を思い返すうじうじ君は「ちんぽに脳味噌はないのだ」と宣言する性獣でもあります。この性獣っぷりがある種の性獣族にとって「あるある」「あったあった」と懐かしくまた若さを象徴するはつらつとした性獣っぷりなのであります。えーいくそここまで書いててATOKのアホ変換に苛立ちもピークですが性獣などと変換できるほうがおかしいわな。
で、っていうか、googleにポルノ認定されているMovieBooですのでもちろんこのままポルノ話に繋がります。
噂通りの過激な性描写です。過激というか、性描写が占める割合も大きいですし、この映画は下手すればポルノです。愛の営みを愛の物語で綴るわけですから、内容からストーリーから描写まで基本性交でできており、それはつまり普通の映画に出てくる性描写とか、「ニンフォマニアック」が描く性描写とは全く意味が異なりまして、ポルノと言われたりあるいはポルノと比較されることが避けられないのですね。
そこでまた困ったことになりますが、では普通の映画とポルノ映画の違いというのはどこにあるか、はたまた、違いなどあるのか、と、そういう方向にも向いてしまうのでして、昔たとえば「エマニエル夫人」という愛の映画がありましたがあの頃とまた同じ問題に考え込む人もいるのではないかと思えます。しかしエマニエル夫人すら変換できないのはどうかと思うぞ間抜けATOK、と一瞬思いましたが気を取り直し正しく「エマニュエル夫人」で一発変換。
映画とポルノについては多分ラース・フォン・トリアーが世界一の権威であると思うのでいろいろと割愛しますけど、普通の映画が性描写を過激にすればするほどそれはポルノと比較され過激さを失います。このパラドックスから抜け出すのは映画の映画たる部分にかかってくるわけで、それは何かというとポルノ的ではない部分ということになります。過激な性描写でゴリラを奮闘させるのが目的ではなく、むしろ如何に萎えさせるかという事になってくるのですがこのバランスこそが愛の映画の目指す目的・目論見となるわけです。萎えさせすぎてもいけませんし、例えばですね、若いカップルが愛の映画を観てちょっと萌えたりするのはこれは大変いいことでしてね、ジャンル映画としての愛の映画ってのは得てしてそういうことを目論んでおりましてそこでもやはりポルノとの境目というのはないのでありますが、で、この「LOVE」はどうなのかというと主人公のうじうじっぷりが最後のほうに全開しますからわりとそういう意味ではまったくポルノ的ではありません。
さて何度も書いたことですがまた書きますそれは日本の性器禁止の法律についてです。
日本では性器や性交の表現が法律に違反しているとして、盛大なぼかしが入ります。この法律は昔に出来た無意味な法律で、猥褻はいかんがぼかせばそれで良いという実に日本人的な恥ずかしい情けないみっともない気色悪い法律です。この法律がまだ生きていて「LOVE」のような映画でもぼかし満載です。
「LOVE」について何か語るとき、盛大なぼかしのせいで表現されたものさえ見れていない人間が何か感想を語るとか、実にあほらしいし失礼です。生々しい性描写の生々しさをまろやかにぼかされて隠されて、過激な何とかとか何を抜かしとんねんと、そう思わないでおれません。しかも3Dでも見ていないし、これあれですよ、私は「LOVE」を観たとは到底思えません。すいません。
謝ったのに失礼ながら気になってしまったことをわざわざ書きます。それはマイケル・ウィンターボトムの「9 songs」です。
ゴダール「さらば、愛の言葉よ」もトリアー「ニンフォマニアック」も、大島渚「愛のコリーダ」も、「ベーゼモア」も「レイプゾンビ」も、実際の話「LOVE」とは似ても似つかない映画たちです。関係ありません。
でも「9 songs」は違います。「9 songs」はすでに別れた彼女との暮らしを思い返すうじうじ君の物語で全編彼女とのいちゃつきと見に行ったコンサートのシーンで出来ています。いちゃつきが高じてちょっと過激な体験もしてみようかなんていう展開も含め、過ぎた過去に捕らわれた愛の思い出話であることも含め、偽でない本当のセックスを役者がやっていたりする過激さも含め、はっきりいって「9 songs」と「LOVE」はかなり似ています。これはちょっと気になりました。
もうひとつ気になるのはやっぱり主人公のうじうじっぷりです。どんな映画でも好きな筆者ですがうじうじ君の話は比較的苦手です。また、ギャスパー・ノエ本人がノエという名で出演したり、子供の名前をギャスパーにしたり、主人公が「2001年宇宙の旅」を崇拝し映画監督を目指す青年だったり、漂うギャスパー・ノエの私小説的な香りが少々鼻につきます。映画全体もおセンチな香りが包み込んでいます。とくにエンディング近くのおセンチ全開っぷりには苦手を通り越して「だるいな」と思ってしまいました。
とはいえ、話を蒸し返しますがなんてったってぼかしで隠された映像と3Dの面白さをすべて剥ぎ取ったスカスカの残りカスのような状態で観たわけですから、おセンチとかうじうじとか、本当は映画の中ではどうでもいい部分ばかり目立ってしまったのかもしれません。というか多分そうです。
表現された映像をすべて見て、飛び出る精子に「ひゃっ」と身をかわし、そういうのをちゃんと体験できていたら「何かしらんがおもろかったぞ」と素直に思えたような気がします。気色悪い劣等国で洗脳された己の哀れをまたもや感じてしまいました。