情報を遮断しましょう
とっくに公開を終えたヒット作品なので難しいかもしれませんが、まだ観ていない人は予告編や公式サイトなどでネタバレを喰らわず、情報を出来る限り遮断して鑑賞することをお勧めします。
「南アが舞台でエイリアンが難民」この設定を知るだけで十分です。
「はて、設定は確かに面白い。けど、それをどう物語として描くのか?」と疑問を持つくらいがちょうどいいです。情報を遮断する技を心得ている情報強者は特に幸せな2時間を体験できるでしょう。
もちろん、一度観た後は全体を把握した上で2度3度と楽しめます。ネタバレを喰らってる人は初見でも2度目みたいな感じでどうぞ。
冒頭、編集の妙技
冒頭1分からのめり込めます。冒頭の編集にはピーター・ジャクソンの助言があったそうで、POVを思わせるドキュメンタリー風の短いカットが矢継ぎ早に出現し、20年以上のヨハネスブルグとエイリアンの歴史を完結に示し、同時に主人公らしい小役人ヴィカスを印象的に紹介します。
冒頭の編集の素晴らしさは小役人の母親がインタビューで目頭を押さえるところから発揮されます。ここで観客の頭に小さなハテナが発生。すぐまた脳天気な小役人ヴィカスの昇進に浮かれる様子が映し出された後、妻のインタビューで先ほどのハテナが巨大化します。小役人の脳天気な映像と、これから何かが起こるらしい不安感が押し寄せてきて、もう目が離せない状態に持って行かれます。
義父のコネで昇進するヘラヘラしたこの小役人の仕事は、現在の第9地区から新しい隔離地区へ難民を移動させる手続きを進めること。具体的には、移住の同意書にエイリアンひとりずつのサインを貰う仕事です。でも実はサインを貰うだけではなくて、その際に隠し持っている武器を押収したり不穏な動きを調査するという役目もあります。
冒頭からしばらくは、昇進した小役人をビデオに収める映像、テレビニュース、セキュリティカメラなどの複数の視点で構成されたPOVというかドキュメンタリー形式というか「LOOK」と同じ技法で客観的に物語が描かれます。
映画全体を通してこの客観映像はかなり多用されており、後半多く出現する通常のドラマ形式の撮影部分と上手に繋げています。リアル感とドラマ感の切り替えタイミングとバランスの絶妙なさじ加減は神業と言っていい仕事です。
ヴィカス(シャルト・コプリー)
主人公の小役人を演じるシャルト・コプリー、この人がまた凄いです。どんな大物俳優かと思ったらヨハネスブルグ生まれのほとんど知られていない俳優(プロデューサー、監督も)でした。
ヘラヘラした小役人で、思想信条のないナチュラル系差別主義者で、小物作りが好きな繊細さも持っていて、昇進によるプライドと部下に嫌われたくない八方美人的姑息さを併せ持ち、怖い人から目を反らし、恥ずかしい記録を録られまいとする自意識過剰なところも持っています。その性質を保ったまま後半はキャラクターが変化していきドラマを大いに盛り上げるのですが、この複雑に練り上げられたキャラクターを厭味なく見事に演じきり、見ているこちらに「この人以外にこの主役はあり得ない」とまで思わせてくれます。
しかもほとんどのセリフが即興のアドリブだというのだから驚くべき才能、あるいは奇跡的人選と言っていいでしょう。この映画は主人公の魅力に依るところが相当大きいと思っています。
SF-昆虫型エイリアンの生態
SFというのは本質的に架空のデフォルメされた設定の中で現実を風刺するという役割を持っており、南アでエイリアンを難民に仕立てた世界を描くこの映画の持つ社会風刺部分は今までありそうでなかった斬新な設定です。その件については多分、多く語られているだろうと思われます。余計な手間を省いたダイレクトな表現でずばずばやっていて、アパルトヘイトはもちろん、ナイジェリア人の流入の問題や、果てはホロコーストや731部隊を連想させるシーンまで登場します。
SF絡みで見落とされがちなことは上記社会風刺の他に、エイリアンの生態についてのバックボーンがあります。SFファンにはある程度馴染み深い昆虫についての考察が前提としてエイリアンの設定に含まれているようです。リアルかつスピーディな展開をする本作品には、くどくど説明的なシーンはほとんどありません。エイリアンについても「蜂のような」で済ませています。
SFで昆虫というのは特別な存在で、最も進化した生物は昆虫であるなんていう考え方が普通にあります。彼らと人間とは社会とか個人とかの在り方が全く異なっており、簡単に言うと人間の身体が昆虫の社会とすれば一匹一匹は動き回ることが出来る細胞と同じ、という考えです。
こういう社会構造で科学文明が発達した宇宙人とのコミュニケーション不全を描いた優れたSF短編小説もあります。
本作のエイリアンはまさしくこのタイプで、人間でいうところの個人とエイリアンの個体とは似て非なるものなんですね。そこが理解できていないと「力も強くて高度な武器を持つエイリアンがなぜ虐げられた難民生活を送っているのか」と疑問に思ってしまうかもしれません。彼らひとりずつは単なる構成要素のひとりに過ぎないのであって、女王蜂が命令を下さない限り何もできないわけです。
クリストファー・ジョンソン
その中に「クリストファー・ジョンソン」と侮辱的名前を付けられた特定のエイリアンが感情やアイデンティティを持って登場します。これはエコロジー的に重要な代替の機能で、失った指導者に成るべく個体の一つが進化した結果なのでしょう。怪我をしたら細胞が修復するのと同じで、指導者を失ったら働き蜂の中から誰かが指導者の役割に昇進するわけです。図らずもクリストファーなんて名前を人間は付けてしまったんですね。なかなか渋いところをつく脚本です。そういえば十字架の形をしたアレとか3年後がどうのこうの(3年後は2012年)といったそっち系のネタもこっそり仕込んでます。
コミュニケーション
さてこの映画の優れた脚本の一つの成果として、エイリアンと人間とのコミュニケーションが挙げられます。
注意深く見ているとわかりますが、人間とエイリアンはあまりコミュニケーションを上手に取れていません。何とか片言と身振り手振りで意志を伝えます。特に前半の同意書にサインを貰いに行くシーンなど、字幕がついているので観客には双方の言ってることが伝わりますが、実は彼らはコミュニケーション不全の中、互いに勝手に喋っているだけであることがわかります。この表現は大変面白いです。20年以上の共存の結果、簡単な単語はお互い少しわかる程度にはなっているようで、会話の中で出てくる単語を頼りに相手の言わんとしていることを想像で補い、大きな身振り手振りで意思疎通を図ります。まさに外国人との会話です。
脚本か設定資料の中に、どの単語を誰がどれくらい理解しているかということが事細かに決められているんじゃないかと思うのですがどうでしょう。
対エイリアンだけでなく、ギャング団たちの会話でも多国語感が増幅されます。字幕を付けるまでもないような彼らの会話シーンも興味深いです。そういえば南ア訛りなのかどうなのか、主要登場人物たちの多種多様な訛りも面白いですね。コミュニケーションについては、この作品のテーマの中で大きなウエイトを占めていると思われます。
移民難民外国人差別エイリアン差別、最も表面的で尚かつ最も深い部分の違和感の正体こそ言語。
コミュニケーション不全と主人公の饒舌が陰陽の対を成しているようにも見えてきます。
娯楽要素・変人要素
基本的に娯楽作品に徹していながら、その表現方法は斬新さと攻撃性を失いません。敵の攻撃は命中率0とか、子供の出しかたとか、王道の大衆性を程よく交ぜながらも軽薄系娯楽消耗作品に落ちぶれる寸前のところでガチっと抑制を効かせます。斬新な表現方法もたくさん取り入れていますし、「安い」演出を意識的に避けているように見受けられる部分も多いです。
怖いシーンはホラー映画ばりに怖いし、予想より少し短いカット編集の大胆さも見事。
あっと驚くハチャメチャ展開、悪趣味なブラックジョーク、受けを狙ってわざとやったハリウッド的演出、ヨーロッパ映画のような気の効いたショット、美しいCG合成と、これでもかと言うほど詰め込んであります。
この監督、若いのにかなり判ってる人ですね。すごい新人が現れたものです。
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