フランコ率いる反乱軍が勝利し軍事独裁国家となったスペイン、独裁者どもは内戦での敗者を一掃するためあらゆる悪事を行いましたが、とりわけ敗者側の女性に対する仕打ちについて、これまで大きく取り上げられることはなかったといいます。
マドリードの女性刑務所には共和国側の肉親や妻や恋人など女性たちが多く収監され、茶番の簡易裁判で収容所じみたひどい環境に押し込め、死刑を執行しました。この悪辣でブラックな歴史いついて、フランコ政権時代はもちろん、その後も生き残りやその家族たちは沈黙を続けたそうです。
「あの日のように抱きしめて」のときにも改めて知りましたが、被害者側が差別や偏見を恐れ沈黙し歴史から目を背けるという事実があります。政治的弾圧を受けた被害者の恐怖は時代をまたがりずっと続くんですね。この恐怖を共有し克服することが文明社会への第一歩、「スリーピング・ボイス」のような映画は社会にとって必要なものです。自国の恥部から目をそらしても碌な事になりません。
「スリーピング・ボイス」制作の発端はドゥルセ・チャコンの小説「スリーピング・ボイス(La Voz Dormida)」(2002)だそうです。長く沈黙を守り続けてきた生き残りの女性たちにインタビューし、取材を重ね、初めて女性刑務所内の実態を明らかにしたこの小説をベニト・サンブラノ監督が読んですぐにチャコンに連絡、共同脚本での映画化を取り付けたという経緯ですって。その後、ドゥルセ・チャコン氏が亡くなってしまい、共同脚本は不可能になりましたがベニト・サンブラノ監督は6年かけて映画を完成させました。公式サイトにそう書いてあった。
収容所のような刑務所、天を仰ぎたくなるほどの茶番の簡易裁判、ひどい話が目白押しで、見るのがつらい映画です。このような女性差別というか弾圧というか粛清が独裁政権時に行われていたことを我々は目撃せねばなりません。この時代、インテリ女性を殺す一方で、フランコは「女性は知恵や仕事など持たず家を守り夫に尽くすものだ」と独裁っぽい幼稚な家長制度に傾倒していたわけです。どういうわけかどんな時代のどんな国であっても、独裁野郎というのは女性をこのように見て押し込めます。この特徴は何でしょうか。精神分析的にはエディプス・コンプレックスの歪んだ発露と思わずにはおれませんよね。フランコにしろヒトラーにしろ安倍晋三にしろ、力を持つほどに庶民の家族のあり方とか女性の日常とか、そういう些末な部分を強制しようと必死になります。権力を持つほどに恐怖心が高まるのでしょうか。何なのでしょうか。マザコンや権力者になったことがないのでわかりませんが興味深いところではあります。
映画というものは社会告発の辛さだけでは面白くも何ともありません。そこは映画的にいろいろと盛り上がりや物語の面白さや人物の魅力なんかを交えています。
なんと言ってもインマ・クエスタです。刑務所に収監される芯の強いオルテンシアの役をやりとげました。
「スリーピング・ボイス」は日本では2015年春〜2016年夏にかけて公開されましたが2011年の映画です。2011年インマ・クエスタは「マルティナの住む街」にも出演して魅力を炸裂させていますね。真面目な告発系映画とおちゃらけバケーションムービーを同じ年にヒットさせて、この女優の底力をすでに感じさせます。
もう一人の主演、姉を慕い釈放させるために奔走する可愛らしい妹ペピータを演じたマリア・レオンです。無邪気な田舎娘が頼まれものをいやいや引き受けたりしていく中で、どんどん本気になり強くもなっていきます。
はっきり言ってペピータの存在は観ているこちらの胸を締め付け心を掻き乱します。この主人公の造形、顔つきから演技、ちょっと素晴らしいですよ。「スリーピング・ボイス」は告発系の社会派映画としても優れていますが、女性個人の物語としても凄みがあります。マリア・レオンのペピータを見るだけでもこの映画の価値あります。
マリア・レオンは「スリーピング・ボイス」でゴヤ賞女優賞の他いくつも受賞しました。当時の大注目女優ですが、日本では他の作品が紹介されていません。配給さん頼みます。
姉インマ・クエスタの収容所内パートと妹ペピータが出会う外の世界パート、その両方に魅力的な人物とドラマを配置して観るものを惹きつけます。
登場する人々の個性や設定が存分に生かされていて、わずかなセリフや行動の中でひとりひとりの人生を感じさせてもくれます。主要じゃない登場人物にだってそれを感じます。ストーリーを語る上で登場人物に細やかな肉付けを行うのはいい映画の特徴ですね。
監督のベニト・サンブラノは1999年「ローサのぬくもり」の監督です。「スリーピング・ボイス」の著者ドゥルセ・チャコンも「ローサのぬくもり」を高く評価しており、それもあって映画化と共同脚本の話にも積極的だったそうなのですね。