待ちに待ってやっと来ました「さざなみ」ですが、どんな内容かまったく知らぬまま観まして、食い入るように見つめ続けて終わったときには「なんだこりゃ。こりゃ新しい。いや古くて新しい。いやチョイスが新しい。というか愛の映画。というか、あるある映画」とわけのわからないことを叫ばずにはおれないという、そんな案配でした。
それからまた反芻するとミステリー要素に気づきまして、このミステリーが奥深くまたのめり込みます。ミステリーをどう解釈するかは観る人の自由です。想像が広がり、その結果また違う印象を受けたりします。わお。こりゃたまげた。と、見終わって数時間後にあっと驚くという、そんな複雑さも含まれます。
地味そうで鋭い、オーソドックスで斬新、ありそうでなかった、いやなさそうであったのか、あったけどこれはなかったやろ、と、何だかふらふらしてきますがそのような映画です。「そのような映画です」と言われて納得する人はいません。何を言っているのかたっぷり書いていきましょう。
…と思って下書きしていましたが突然ぷっつりと映画感想の更新が途絶え、気がつくと半年経っていました。じつはこの映画や「牡蠣工場」や「レヴェナント」を観に行った頃にひとつの事件が起きてその対処に数ヶ月かかり、その後旅に出てしまい、その後別のことで忙しくなって、そうこうしている間に書こうとしていたことを忘れました。抜け落ちました。すいません(酷)
「さざなみ」を映画部夫婦が観て、その後数日間語り倒したときに面白い現象が起きました。いつも気が合うのに「さざなみ」に関しては真っ二つに意見が分かれたのです。映画的な面白さの部分やいろんなことが同意見なのに、なぜか夫婦のそれぞれの立場がどうだったのかという話になると真っ向対立、正反対の受け取り方をしていました。いわゆるこれが夫婦の男女差というやつか。これは大変興味深いです。
普通に男なら夫に、女性なら妻に感情移入するでしょうか。単純にそうとも思えませんが、ストーリーの中でそれぞれが何かについてどう感じていたかという点では明らかにそれがあるように思います。ええい、何の話をしているのか伝わりにくいな。
明確に覚えているのは「さざなみ」が「さざなみ」というタイトルやシャーロット・ランプリング大写しのポスターアートから想像するであろう名作映画的文芸的心の奥底的感動大作的人間の突きつけ的老齢夫婦の悟り的胸鷲づかみ的作品ではないということです。あ、いや、胸鷲づかみはちょっとされました。
この世に老人などいないのだ。あなたや私が思い込んでいる老人という幻想を打ち砕く若さみなぎる愛と嫉妬のラブロマンス、これは新たな老人映画の到達地点、老人ばかりになる未来に投げかけた攻撃であり挑戦でもあります。うおおお(力みすぎ)
シャーロット・ランプリングは「まぼろし」が強烈な映画でした。あれ観て以来尊敬できるおとな女優トップ3の中の一人として君臨しております。余談ですが他の二人はカルメン・マウラとシガニー・ウィーバーですが、特に強い思いなわけでもありません。しかしみなさん知らぬ間に老齢とも言える年齢に達しつつありまして泣けてきます。でもすごくかっこよく歳取ってきてますからよしとします。
ときどき「シャーロット・ランプリングの後継となり得る女優はだれだろう」なんて与太話もしてあそびます。これが意外と思い当たらないんですね。条件きびしいよ。とか、そんなこと考えてる暇があったら「さざなみ」をもう少し思い出したいところです。書き損じて言いたかったことを忘れてしまった悔しさのために下書き放置していましたがもうそんなことはどうでもいいのだ。
確かに「さざなみ」はシャーロット・ランプリングとトム・コートネイの新たな代表作と言っていい出来映えでしょう。
この世に老人などいないのだ。うおお。と、ただ繰り返しておきまして、近頃変なタイミングで変な更新ばかりしてすいません。