牡蠣工場

OYSTER FACTORY
「牡蠣工場」の公開を制作中から楽しみにしていて、せっかくだから公開されたら撮影地となるべく近い街に旅行がてら出向いてそこで観るのだと決めていたのに具合の悪い時期と重なってしまい、しばらく後の地元京都での上映まで待たねばなりませんでした。
牡蠣工場

「牡蠣工場」を観た後、二日三日と映画部で話が尽きませんでした。言いたいことが山盛りありました。半分は酔いのせいとは言え、下書きのメモは何枚にもびっしり書き込まれ、これを全部感想文に書いたら大変なことになるなと思いつつ、実際に後でそれを読み返したら何を言ってるのか全然わからないという、なんだこれは。酔っ払いの戯言か。というかですね、そうではなくてまさにこの日、上映前にiPhoneを覗いていたらある事件に遭遇して、その事件の解決のために2、3ヶ月の時間を要しました。そしてその後は旅の出稼ぎに出てしまい、あれよあれよという間に夏が終わり秋になって今年も終わろうとしているこんな時期になりまして、皆様お元気でしょうか。仕切り直しを込めて、気分は春です。今は春です。

牡蠣工場ですから牡蠣工場で働く姿というものが、これがまず一番にやってきます。「はたらくおじさん〜牡蠣工場編」です。見たことがない作業が冒頭から続きます。ざーっと牡蠣を引き上げて船を着けて工場内に送り込み、内部では養鶏場の鶏のように(←こら)次々になだれ込んでくる牡蠣を剥きます。こうした姿に夢中になります。働く姿は美しいです。この労働するシーンだけでも様々な感情が沸き起こります。

労働の尊さ、手さばきの美しさ、家内工業的なまろやかさ、仕事が毎日あっていいなあという嫉み、そしてまた単純労働に見る途上国的な現実、こんな毎日を送っていたら政治家が何やってるか知るとか文化芸術に触れるとかそんなのできっこないわ、そりゃ無理だわ、日本の現実って虫だわ、とかそういう方面の厭らしい見方、片方では神経を病んだ都市生活者が消費する服従機械と化して他人の迷惑に目くじらを立て、片方ではそんな暇人になる暇もなく労働し煙草を吸い飯を食い疲れて寝るという暮らしを続けるその格差というか違いに思いを馳せ、それにしても海綺麗空綺麗牡蠣旨そうおばあちゃん可愛いお嫁さんも可愛い移動小売店とか羨ましい簡単な会話に会話の源泉を感じるし生き物は生きるのが仕事。などと渦巻きます。

最初の海。二度目の海。

最初の海のシーンから目が釘付けです。わぁ、海ええなあ、空きれいなあ、あんな風にやるのか、すっげー、牡蠣いっぱーい、と子供のように生まれて初めて見る牡蠣現場に食いつきます。

そして映画を見続けて、やがて二度目の海のシーンがあります。最初の海と二度目の海は当然ながら同じ作業をやっています。映画では二度ですが彼らはいつもやっています。

面白いことに、牡蠣工場の様子を一通り拝見したあとの二度目の海のシーンで、何と観ているこちらもまるでもう毎日見続けてきたみたいな心境になります。ほんのちょっと前に初めて見て大興奮だった同じシーンを冷静に観ます。もしこの時、海のシーンを初めて見る純真な人間が横にいたとしましょうよ、そしたらですね、こちらとしては初めて見てはしゃいでいるその人を「初やつよのう」と、おとな目線で見ることでしょう。「景色に見とれてる暇はねえんだよ」よっこらしょと。てな案配です。ただの二度目の海に「いつもの景色」感です。この慣れ、この変化、これ我ながら呆れるベテラン気分の順応っぷりです。

それでも尚「牡蠣工場」では随所に美しい景色が挟まれます。とろけそうな景色の描写と、とろけてる暇ねえよという現実を行ったり来たり、この構成が実は「牡蠣工場」の真髄でもあります。

景色だけでなく、被写体との関係にも慣れと緊張の繰り返しが描かれます。

被写体との緊張感でいうと、撮影が進むことによって撮影者と被写体にも慣れが生じます。穏やかでもあります。そしてそうでない時もあります。「牡蠣工場」では想田監督は完璧に映画内の登場人物の一人として関与します。撮影者の存在は関係に変化をもたらしますし、影響を与えあいます。これが想田監督の観察映画の面白い部分です。

想田監督にとって岡山弁は馴染みの言葉であろうとは思われます。でもネイティブ西の言葉ってのは危険なところがあって、面白い言葉と怖い言葉の差が微妙すぎて伝わらないことがあります。面白いことを言ってるのか、本気でピリピリ来てるのか、そこを見誤ることがあります。「牡蠣工場」で最も緊張感の漂うシーンとなった親父さんの背中越しの会話シーンがありました。

最初は冗談めかして面白く語るおやじさんににこにこと答える想田監督です。でもある一瞬、観ているこちらがどん引きする怖い言葉をおやじさんが言うのですが、監督はまだ面白く受け答えするんですね。これ気づかなくても仕方ありません。でも見てるこっちは気づいてます。この時の緊張感たるや、もうね、ちびるほどドキドキしました。直後に監督は気づいて態度を改めますが、このシーンを採用したのはとても勇気があることだと思いましたよ。似たような会話シーンが渡辺さんの時にもありますね。ここも本編に採用しました。監督は緩さに油断した自分の姿をきっちり入れ込むことで、甘ったるいにこにこ朗らか牡蠣工場になることから時々映画を引っぺがします。

労働ということ。

労働そのもの、はたらく姿、知恵と工夫、それ以外にも社会における労働の問題があります。相続税の話がありました。中国人の件もそうです。都会とは別世界のような小さな港町には日本が凝縮されています。日本の病理も凝縮されています。もっというと世界が凝縮されています。さらにまだ言うと時間が凝縮されています。経済活動という地獄のダンスが垣間見れます。

この部分に関してはしかし私は安堵の気持ちもありました。日本の病理として最も忌々しい全体主義的な服従亡者たちの病理がこの土地ではまったく感じられなかったからです。そんな風に安堵するこちらも相当に病んでいるのは確かですが、日本という国の最後のかすかな糸です。

宮城から。

渡辺さんは宮城から来ました。想田監督との会話で、宮城の放射能について渡辺さんは言い淀みます。想田監督をまだ信用していないのです。このカメラを携えた男にどこまでどんな風に話せばよいのかと考えている風でもあります。このときの渡辺さんの表情に汚染の現実を見ます。いずれ瀬戸内も猛烈に汚染される日が来るでしょう。そのときに再び「牡蠣工場」を見たならば、もう涙で霞んで何も見ることができないのではないかと想像して、その想像だけで泣けてきました。

監督の立ち位置、被写体との関係、これらが「精神」との類似を感じさせます。

心を通わせる様、通わせない様、監督と背中を見せる人の対比、言い淀む宮城の話、徹底的に細かな描写で仕事を写し、暢気な日常的風景と美しい景色を挟み込み、中国人を迎える様子、プレハブを建てる様、遊ぶ子供たちを捉えます。これら断片から見えてくるものが何であるのか、特に主張するでもなく、深刻になるでもなく、撮影中に映画の神が舞い降りたあの落ちる釣り人のアクシデントシーンでまた観る者を良い気分にさせたりします。「牡蠣工場」に詰まったものはちょっとこれは洒落にならないくらい多くあります。

ということで「牡蠣工場」の感想を絞って書いておきました。

 

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