2007年、イタリア、ペルージャで起きた英国人留学生の惨殺事件を題材にした映画です。この事件は「アマンダ・ノックス事件」とか「ペルージャ英国人留学生殺害事件」とか言われている有名な事件だそうです。知らなかったけど。
殺害されたのはイギリス人女学生、逮捕された容疑者はルームメイトのアメリカ人女学生です。何度も裁判が行われ、有罪になったり無罪になったり、ちょっとややこしい事件です。詳しくはサイドメニューのWikipediaや関連サイトなどご覧ください。
で、このセンセーショナルな事件をイタリア、アメリカ、イギリス、世界の至る所でワイドショー的に煽りまくり、本が出版され、その加熱する報道が問題視されたりもしたようです。
本作はこの事件を映画化しようという企画があり、抜擢された監督が現地に出向いて取材したり脚本のアイデアを練ったりする話です。
「天使が消えた街」の元のタイトルは「天使の顔(The face of an angel)」で、同名の著書が原作ということになっております。映画内でも、主人公の映画監督はまず最初に「天使の顔」の著者と会いますね。
特に映画内では示しませんが、主人公映画監督は本作の監督マイケル・ウィンターボトムその人そのものなのかな、と思えます。
と、すると、もしかしたら本当に「アマンダ・ノックス事件」を映画化してほしいとマイケル・ウィンターボトムに依頼があって、それで取材して、その結果「天使が消えた街」ができあがったんだろうかなんて思えてきます。まるで筒井順慶の歴史小説を書こうとする作家が上手く書けねえよと右往左往する様をそのまま小説にした「筒井順慶」みたいなそんな話ですね。
実際はどうなのか知りませんけど。
映画化にあたって、どういう切り口で描こうか、どんな脚本にしようかと映画監督が苦悩するお話です。
「天使の顔」の著者やジャーナリスト、映画関係者、現地イタリアで知り合う女の子や怪しい男などいろんな人と会いながら、どんどん落ち込み脚本がまったく進まない監督です。
最終的に監督が選んだテーマと本作そのものが重なっていきます。ちょっとメタっぽいテイストを含ませた私小説的な映画でありますね。どこまでが私小説的とか、どこまでが創作とか、そんなことはわかりません。でも全体に私小説的なものに感じさせます。
正直な感想を言いますとね、監督が苦悩しすぎて、その苦悩がいまいち伝わらなくて、うじうじしたり逃避したりするのを見ながら「何をうじうじしとんねん監督」と、ちょっと辛気くさく思えてしまいました。ごめん監督。
ダンテの神曲とか何だとか文学的などうでもいいことをつぶやきながらセンセーショナルな映画を文学的に引き上げようとしますがそのあたりも胡散臭く感じてしまい、あまり乗れませんでした。ごめん監督。
でもひとつだけ伝わったことがらがありました。それは若い女の子が好きってことです。これには大いに共感します。いえ、だれでもおっさんなら若い女の子が好きですが、この映画で最終的に到達するその「好き加減」っていうのがですね、とても複雑なところなんです。複雑ですが変態的です。エロとかロリコンというのとはちょっと違うんですが、考えようによってはエロやロリコンのほうがまだ健全なのではないかというほどの変態的好き加減です。つまりとてつもなくピュアなんです。おっさんのくせに「わたしは真悟」の悟みたいにピュアなんて変態と言わずに何という。この好き加減は同じ変態同士でないと共感できないかもしれません。映画部の奥さまなどは「この映画キモい」と、おっさんの持つ繊細でちっぽけなハートのことなどまるで分からないご様子。
なにやら熱く語っておりますがわし大丈夫か。
映画の中では主人公監督ダニエル・ブリュールの娘ってのが出てきて、これはちびっ子の娘で父親としての最大の愛情をそそいでいます。ここまではどなたにも伝わりますね。
片や「天使の顔」の著者は大人のいい女で、これは普通に健康的な大人として付き合いなどいたします。ここも普通ですね。
もうひとり10代にも見える留学生の女の子が登場します。主人公はこの女の子には大人の女を見いだしません。娘のようだ、というわけでもありません。でも娘の延長線上に捉えている気配です。大人としても若干認めています。この年頃のこの女の子に対する監督のおっさんとしてピュアすぎる対応こそがキモ。そのピュアな感情は同じ年頃である殺人事件の被害者や加害者にも当然向きます。みんな若い女の子です。多少乱れていようが殺人しようがしまいがそれがどうしたというのか、何をみんなして騒いでいるのか、もうわし、わけわからんわ、と監督苦悩しまくります。
マイケル・ウィンターボトム監督が「天使が消えた街」で最大に描いた事柄こそ、若い女の子へのピュアすぎる憧憬や恋心なのであります(断言)
ピュアすぎるその気持ちはちょっと危ない方向にも向きます。私は基本的にこの映画に共感しますがまったく共感できないシーンもあります。最大のそれは、うじうじぐだぐだ落ち込んでいるおっさんの元に現れたぴちぴちギャルが「カーテン開けないと!」とか言いながら明るくほがらかに振る舞い励ますあのシーンです。あのシーンははっきり言って相当キモいです。うじうじ男が憧れる「何でもお見通しで何でも許してくれて保護者のようなお母ちゃんのようなすべてを包み込み慰めてくれる母性を伴う若いぴちぴち美女」の体現という、宇宙中を探してもそんな都合のよい若い女の子がおるわけないやろボケという、うじうじ男の妄想の果てみたいなあのシーンです。あれだけはいただけません。
とかなんとか、まあそういう映画でして、最終的にはおっさんの持つ性愛を超えたピュアな女の子を慈しむ心を再確認する映画でありまして(ほんとか?)、それはそれでもういいとして、前回「イタリアは呼んでいる」の続きがここから始まりますが。
シリアスな「天使が消えた街」とコミカルお手軽な「イタリアは呼んでいる」をどうやら同じ時期に撮影しています。まったく同時期かどうかはわかりませんが、ほとんど同時期であると思われます。
おっさん二人のふざけたグルメ旅行の映画と、殺人事件に関する監督の苦悩を描いた映画を同じタイミング同じような場所で撮るという、これを知ると知らぬでは何となく印象が大きく変わりますよ。
「天使が消えた街」のシーンの随所にですね、「イタリアは呼んでいる」でロケした同じ場所が登場します。映画を観ながら「あっ。ここあそこやん」「あっ。ここあの道やん」「あっ。このテラスから見るこの景色、一緒やん」と、本編そっちのけでそればっかりに気が向くのですよ。これが楽しくて。
映画内では苦悩する映画監督がうじうじやっているのに、同じ場所で暢気なおっさんふたりがスターの物真似やったり馬鹿話をするのを思い出してしまうという、何とも奇妙な楽しみ方ができました。
それによって一つ気づくことは、「天使が消えた街」でうじうじやっている映画監督、これがマイケル・ウィンターボトム監督本人とはとうてい思えないってことです。私小説的な印象は変わりませんが、マイケル・ウィンターボトム監督はイタリアでうじうじなんぞしておりません。コメディアンたちと楽しくグルメ映画を撮っております。イタリアを満喫しています。
苦悩する映画監督の映画は「私小説みたいに見える苦悩する映画監督を描いた映画」にすぎません。創作とはそういういうものです。
これこそ大人の映画監督。したたかです。とてもしたたかです。
ちょっとふざけた感想文になりましたが、実際に起きた事件、しかもほんのちょっと前の出来事でセンセーショナルにマスコミが囃し立てる女の子たちの事件を映画化することの意味について、この映画は正直に葛藤を表現しています。
事件を映画化する意図は。意味と目的は。いくら高度な文芸上の試みをしたところで、いくら社会問題として普遍的な問題提起をおこなったところで、根っこにある卑しさは消えません。「乱れた女学生」への偏見の目、興味本位で野次馬的な世間の興味をないことにはできないんです。
とても興味深いテーマの映画であることには違いありません。
[追記] サイドに公式サイトのリンクがありましたが、公式サイト消滅していたので削除しました。また、iTunesからも消えていましたのでitunesリンクも削除しました。
この映画の主テーマについては別の映画「クリーブランド監禁事件」でいろいろ書いていますので、ふざけた感想文に物足りない方はついでにお読みください。