アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の作品が2015年に二本同時に日本で公開されまして何事か何事かとあたふたしておりましたら、それは多分さらに最新作「裁かれるは善人のみ」に先駆けてのお復習い公開という意味もあったのでしょう。
「父、帰る」(2003)があまりの名作っぷりに話題になったのにその後の作品がこれまで日本で紹介されなくて悶々としていた人たちは「やったーやったー」と飛びつきます。私も飛びつきましたが狙いがはずれて落下し、年末年始まで待たねばならぬ羽目になってしまいました。でもどうせ2007年に見損ねたんだから多少のことは誤差の範囲です。
「ヴェラの祈り」の冒頭は寂れた道を飛ばす車のシーンからです。乗っているのは怪我した男。ハードボイルドな始まりに「想像していたのと違う感じだなー」と思いつつわくわくします。やがて男の怪我の手当をする弟、次にその弟が家族と共に田舎の屋敷に向かうという流れで本編が始まります。
序盤ですでに圧倒的な映像美に触れて前のめりとなりますね。冒頭のドライブシーンもそうだし、田舎の景色と自然、屋敷の外観や内部、そこにいる家族の姿、光と影の画面構成にうっとりします。アンドリュー・ワイエスみたいな画面を感じ取ったり出来るでしょうし、暗い室内に窓から差し込む光はフェルメールのようです。もうちょっと古い古典絵画も彷彿とさせます。さらに新しい表現もあります。もう何もかも凄いです。
美術作品のような構図と演出は「父、帰る」でも強く感じましたがより強調されたように感じます。
そんな美しい画面の中で、なにやら家族の不穏が描かれます。奥さんヴェラは辛そうだし、夫婦の会話も少ないのです。誰がどう見ても「うむ。文芸的な映画であるな」と合点して、人間への深い洞察と複雑な関係性を情景描写と重ねつつ描く映画であると思いましょう。思うのは正しい。でも罠です。
この夫婦、どうなんでしょう、子供たちにもちょっと良くない雰囲気が伝染していますし、丘も林も一緒になって不穏です。そして奥さんヴェラが夫に告げます。「子供が出来たの」見つめ合う二人。「あなたの子じゃない」
ちょっとわざと不純な見方をしますね。
この映画、優れた文芸映画であると同時にサイコスリラーでもあります。なことを言うと真面目に観る人に殴られそうですがそうなんです。映画を見終わってずっしり落ち込んでいると悪い考えが沸々と沸き上がります。優れた文芸映画を観たということはひとまず置いといて、美的で深遠なる部分をさくっとそぎ落として、ストーリーを単純にスリラーとして反芻すると、これはこれでずいぶん面白くて、と同時に奥さんヴェラですね、このヴェラにですね「こらヴェラ。あんたなあ、あのな、(ネタバレになるのでここ省略)にもほどがある!」と半泣きで大声を出したくなります。「何がヴェラの祈りか。おれのくじけた心を返せっ」
惚れ惚れする画面構成や演出の中で行われた出来事については一切の口をつぐみます。情景描写が某かの暗喩とか水のシーンがどうだとか、そういうのもこの際いいです。屁理屈はいりません。この映画の映像表現と演出、そこで起こる出来事、これにずっぽり嵌まって体験することをお勧めします。観る価値大ありの優れた映画であることは間違いありません。
踏み込みたい事柄があるんですがネタを割るのは不本意ですので何も書けません。ちょっとだけ書くと、苦悩についての描写が半端じゃありません。苦悩しまくりです。奥さんヴェラもそうだし夫もそうです。物語の中盤では夫の苦悩に胸が張り裂けます。見ている間、夫の苦悩と同化して張り裂けた胸から内臓がこぼれ落ちます。さらにお話が進むと妻の苦悩に心が決壊して、やがて訪れる出来事で観ているこちらは大崩壊。もうだめです。もう駄目。この映画なんなん。この映画、これあかんやろ。これ、あかんやろ。もうわけがわからない状態に陥り立ち直れません。
と、そのようなレベルの苦悩についての映画です。苦悩と情景をたっぷり堪能でき、映画を観て辛い思いを炸裂させることに喜びを見いだす映画マゾに至福の時をもたらします。
広報的には社会的背景の女性の映画という強調がされているようですが、もちろんその側面も大いにあります。前提となる常識があってこそ成り立つ話であり、その常識は社会が作り上げたものであり、そういうの抜きには何も始まりません。
さて、これだけで映画は終わりません。
一見、ゆったり進行するおとなの文芸映画ですが、いずれ大展開を迎えて単純な見方を吹き飛ばしますね。さっき書いたスリラー部分です。この映画がこのような展開の映画とは観ているあいだは誰も思いません。
さすがにここからはネタバレ的にさらに書きにくいですが、まずは奥さんヴェラについての話であるとバラしましょう。この奥さん、この人ね、これ完全に○○です。○○のは観た人が適当と思う言葉を当てはめてください。私は○○○○と。
ミステリーを観た後のように映画を振り返ったとき、奥さんヴェラの○○っぷりが全開することになります。
「このひとは自分のためだけに私と子供を愛している」という凄い言葉もあります。この言葉はヴェラにも帰ってくる呪いの言葉でもあります。
この○○を完璧に演じた女優さんはマリア・ボネヴィーという方です。MovieBooでは紹介する順序が逆になってしまったんですが7年後に「真夜中のゆりかご」の奥さん役をやる人です。この女優が演じるヴェラの○○っぷりが実に見事。もう見事ったら見事。○○女優の称号を与えます。
でここからは別の映画の話にもなりますが「真夜中のゆりかご」の奥さんと本作のヴェラなんですが、これがね、あのね、一致します。ちょっと異なるところはありますが、大筋同じです。物語的位置も同じです。どんでん返し的にも同じです。性格も同じ感じです。もちろんストーリーや細部はまったく違いますよ、でも概ね同じです。偶然なんてないぜ。
たまたま近い時期に二作を観たものだから、主人公キャラクターの大きな相似に映画部内ではちょっとした騒ぎになりました。
そしてMovieBoo探偵団であれこれ箇条書きにして推理した結果、スサンネ・ビアが「ヴェラの祈り」を参考に「真夜中のゆりかご」を作ったのはほぼ間違いないのではないかとの結論に達したのです。
迂闊に言うことではありません。誹謗とも受け取られかねません。誹謗する気はまったくありません。その理由のひとつとして、同じ女優さんを起用しています。パクりであるなら、これはあり得ません。ですので敬意を表しているというふうにも解釈できます。
スサンネが「ヴェラの祈り」に某かの言及をしているのかどうなのか、細かくクレジットを見たり詳細を調査していないので知りません。キャラクター的に同じですが映画は全然違うので「無関係よ!」と逃げ切ることももちろん可能です。そんなわけで「真夜中のゆりかご」という映画自体がスリラーです。という話でした。
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は「父、帰る」で時の人となり、次作のプレッシャーをはねのけて「ヴェラの祈り」を撮りました。
「父、帰る」のあとのインタビュー映像を見ると、監督はすごく若く見えて、若いだけじゃなく誰かに似てるんですね。誰かに似てるなあとよく思い出したら、魔太郎に似てるんです。こんな凄い映画を作る尊敬できる人なのに魔太郎に似ているとは酷い言い草もあったものです。映画が辛すぎて何かおもしろい話をしようとムキになっていたのかもしれません。
さて、今は年末年始の時期ですから、観ようと思っているDVDをいくつも仕入れています。初詣も済んだので、飲み食い以外に一瞬でも時間があれば映画部屋に籠もります。「さて何か観る?」と訪ねると映画部の奥さまが即答します。「まーくんの」
「はい?」
「まー君の」
「まーくんって・・・もしや魔太郎!」
まーくん扱いとは、本人はおろか文芸的ファンがこれを知ったら我々は張り倒されるでしょう。
気を取り直して最後に少しだけ。
美しい景色以外に特に印象に残るシーンが二つあります。ひとつは序盤、母親にしかられた娘がつい強く叱ってしまって落ち込んでいる母親の側に寄り添って「仲良くしたい」と言うところ、ここじーんとしました。もうひとつはラストシーンです。
ラスト、あるシーンが唐突に登場するんですが、このシーンの素晴らしさに胸を打たれます。すでに張り裂けて中身がこぼれ落ちたままですので打たれても空洞で宙を切るだけですが。
ラストシーンは観ている我々に社会と女性について再考を促します。ただのメルヘン女の戯言で済まされない時代や社会の背景について、今一度踏みとどまって考えを巡らしてみてくださいという、映画中唯一のメッセージ色が強いシーンかもしれません。
そんなわけで引き続き「エレナの惑い」を観たわけですが、「ヴェラの祈り」も凄かったが「エレナの惑い」の傑作ぶりに全員腰を抜かす威力。まーくん凄い凄すぎる。
…「エレナの惑い」につづく
カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、夫アレックス役のコンスタンチン・ラヴロネンコが最優秀男優賞を受賞。
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