ファティ・アキン監督がドキュメンタリー映画っていうのでこりゃ何事だと注目していた作品。ゴミ処理場の記録です。
トルコの北東に位置するトラブゾン地域のチャンブルヌ村です。のどかな田舎の村にゴミ処理場が作られますが、まあ杜撰な運営で村中がひどいことになります。
この村はファティ・アキンの祖父母の故郷であるらしいです。故郷を汚される様を5年間にわたり撮影し続けました。
これは観ていて感情をかき立てられます。怒りが発動し、悲しさも覚えます。絶望にもつながりますし、いやいや負けてちゃいかん、四次元的俯瞰で乗り切らねば、なんて思ったりもします。
こうした出来事は日本に限らず他国でも同じなんだなあと妙なところで親近感持ったり、かと思えば、日本ではこうした素直な反応しないよなあとがっかり辛くなったりもします。
美しい村が汚されていく様を突きつけられまして、かなり堪えます。
原題は「Müll im Garten Eden」ゴミのエデンの園、汚染パラダイス、廃棄物天国というようなニュアンスの、皮肉と怒りを込めたタイトルとなっています。
このような映画によくまあ「狂騒曲」だの「ゴミ騒動」だのというちゃらけた邦題をつけたもので、少々呆れますが、「汚染天国」と言えば日本、日本と言えば汚染天国です。トラブゾンで起きたこの酷いゴミ処理場の告発ドキュメンタリーを見ながら、薄らぼんやりと「ところがどっこい、日本じゃ国を挙げてこれより遙かに酷いことになってまんねんで」などと心でつぶやいたりしますが、だからといってチャンブルヌ村の役人が免責されるというわけではありません。
役人や政治家に窮状を訴える村人を映します。故郷をずたずたにされて酷い対応をされて、怒り狂って暴れてもいいくらいですがそんなこともせず話をしようと必死です。日本ほど人非人な態度でないにしろ、想像力の欠落した役人の冷たい態度というものもあります。
政治というものがあります。本来政治というのは支配者に抵抗して国民主権を手に入れるためにあります。政治家というのは国民側の代表者なんですね。そういう当たり前のこともこの映画を観ると少し思い出すかもしれません。
「トラブゾン狂騒曲」について何か書こうとすれば悪い虫がうごめきだして怒りの反社会的言動がほとばしりそうになりますが今日のところはぐっと堪えます。
ぐっと堪えてなぜ今更この映画の感想文というかメモを書くのかというと、ファティ・アキン監督の新作が今まさに公開されているからです。
「消えた声が、その名を呼ぶ」というタイトルで、ものすごく良さそうなんですよ、これ。だから放置していた「トラブゾン」も何か書いておこうかなと思った次第で。
ファティ・アキン作品はどれもこれも大層面白くて、面白いだけじゃなく思想心情その他的にシンパシーを感じるのでして、そのわけは「そして、私たちは愛に帰る」にも書きましたが、つまり社会心理学的な裏付け、知性すなわち教育が世界を救える唯一のものであるという考え、それから若い頃バンドやってたとかノイバンテンとかそういういろいろです。
あ、そういえばこの「トラブゾン」の音楽、これアレキサンダー・ハッケがやっていますね。
ドキュメンタリー映画に音楽はいらないという考えもあり、自分もその考えですが、これに関してはOKとしますね。
観たの随分前で細かいところは忘れていますが、とにかくこれ良かったんです。「田舎のゴミ処理場の問題ね、ふーん、だいたいどんなのか予想できるし」と思う気持ちもわかりますが、できればこういうの観ておいてほしいなと思うんです。やっぱり実際に目撃するとがっつんと来ます。
幸い、時は流れてiTunes StoreやAmazon配信でも扱っているんで、気軽に観ることもできます。ぜひどうぞ。
あっ。予告編を見たら細かいところを次々に思い出してきたぞ。やばい。このままではあれやこれについて書き殴り止まらなくなってしまう。
しかしこの予告編も悪意の軽薄さに満ちています。エコロジーの誤用から始まりお気軽コメディであるかのような編集にも沸々と怒りが。
・・・ぐっと堪えます。かなりぐっと堪えています。
まだ堪えてます。むむむむ。