「永遠の語らい」はポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督2003年の映画です。
妻であり母であり歴史学者であり知性に裏付けられた博愛に満ちたとびきり美女であるローザ・マリア(レオノール・シルヴェイラ)が娘とともに旅をします。
ポルトガルからインドのボンベイ(現ムンバイ)へ向かいますが、その途中わざとゆっくり船旅をして地中海の各国に立ち寄ります。自らの見聞を広め、まだ幼い娘に歴史を語り教えるためでもあります。時間をたっぷりかける船旅こそ最高の贅沢、とても優雅な旅ですね。
母と子はリスボンを出発し、マルセイユ、ナポリ、アテネ、イスタンブールと地中海の各地を巡り旧跡を訪ね、対話の中で文明の軌跡を再確認します。娘に建造物や歴史の意味を説明したり疑問質問に答えたり旅先で出会った人と対話したり、そういうシーンが続きます。美しい景色の描写と知性的な言葉が淡々と描かれ、映画なのに書物に呑まれるような、実に不思議な感覚に包まれます。
ぼんやり見ているとただの観光案内か教育番組のようにも見えるかもしれません。実際に観ている途中しばらくの間はいろんな知見や議論を披露され「へえ」とか「ほー」とか関心してばかりいました。観るものは劇中の娘と同化するごとく甘美なる知識に酔いしれます。
しかし旧跡を案内されていくうちに、徐々に別の感覚に捕らわれるでしょう。インフォメーションや知識をベースに、歴史を再体験し文明を総括しているのだと気づきます。西洋文明の軌跡、国や言語、宗教や対立、母と子と旅先で出会う人々の言葉の奥底に人智のうねりを感じ取る羽目になるのです。かなり大きなものを描いているのだとはっきりわかります。
そのための技法であるやたら説明的とも取れる対話そのものにも目眩を覚えるかもしれません。一連の対話はリアリティの会話ではなくて映画を描くための周到な言葉として生きています。登場人物が登場人物の役割として言葉を発している自覚を持つかのごとき脚本です。おっとこれは超虚構の技法ではありませんか。
このあたりまで来ると、淡々と観光地巡りをして説明的対話に終始する歴史学者とその娘の姿が観る者の中で心的に豹変します。これは宇宙から俯瞰した哲学的文明論の序章ではないのか、と。
歴史を辿り国を俯瞰し西洋文明の推移を再確認し、再確認の中で国や言語について考察し、今の文明の位置を明確にする作業です。文明の現在と未来についての考察を行うための下地になるように作られている感じすら受け始めます。
そう思い始める映画の半ば、母と娘が再び客船に乗り込むのを境に物語が大きく転換します。これまでの母子は脇に回り、客船のセレブたちと船長の対話シーンへと移るんですね。
セレブの女性三人と船長が、これまた超虚構レベルの対話を行います。やはり歴史や文明についての対話です。そしてセレブの女性たちと男の船長ということでジェンダー方面にも話は膨らみます。
知性があり想像力があり知見に満ちた各国セレブ女性の「美藝公」的なる対話は、前半の母子のシーンよりさらに輪をかけて「理想的文明人の会話」を強調した超虚構文学的な体裁となります。鬼気迫るほどの理想的文明人の対話シーン、危うさも秘めており観ているとずぶずぶと沈みゆくすごさです。
何がすごいって、ギリシャ語、フランス語、イタリア語、そして英語で会話するんですよ。全員が各国語のヒアリングが出来てしゃべることは出来ないという設定です。他国語を聞いて自国語で答えます。それで4人の会話が成立します。まるで完璧な翻訳機を通して会話しているような状況ですね。後には、前半の母子も交ざってここにポルトガル語が加わります。
これまで辿ってきた西洋文明の軌跡の中で、国や言語の問題はベース部分にひっそりとありました。言語はまさにアイデンティティを司る根底です。国が敵対する根本だったりもします。言語の壁をなくすことが文明の未来にとって不可欠であると何となく皆了解していますが言語を消滅させ統一させることは文明の崩壊でもありますから論外となります。
答えの一つが、完全なるヒアリングです。まさに理想。その理想を体現するセレブたちと船長にもうくらくら。
SFじみた理想的文明人たちが西洋文明について、アメリカ批判や「相容れぬ人々」の話も交えながら淡々としかし強烈に言葉を紡いでいきます。
「永遠(とわ)の語らい」はこのように多層で多重、宇宙的規模の歴史俯瞰から文明批評、言語とコミュニケーション、文明人の知性と文化について言葉を繰り出す映画となっておりまして、その構成も進行もきわめて特殊な技法で綴られる天下無敵の強烈映画、もはや言葉の宇宙と言うしかありません。
ここに来て言いますが、この映画の原題「Um Filme Falado」、これ「トーキー映画」って意味ですよ。
なんたるちあ、あれほどの文明批評を行ったあげく、一方では明確に映画を映画外から批評するメタ映画であると宣言するタイトルでありました。映画を観てラストの衝撃に打ち抜かれ、知性と文明がかくも儚いものと突きつけられて腰を抜かし気絶した後、あらためてこの原題に到達するとき、もう我々観る者は宇宙の彼方に放り投げられ時空を漂う塵と化します。
この深みとも洒落っ気とも取れるこの感じ、これこそマノエル・ド・オリヴェイラの特異なセンスでありましょう。
ずっと後の映画「ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区」の最後で見せたあのすっとぼけた特殊な作風とも何かしら共通するものがあります。
マノエル・ド・オリヴェイラ監督は「永遠の語らい」を撮ったとき90歳を軽く超えています。100歳を超えても映画を撮っていた仙人のような人類の師匠、残念ながら2015年の春に召されてしまいましたが、2015年末から2016年にかけて「アンジェリカの微笑み」(2010)が日本でも公開されることになりました。
(それもあって、ずいぶん前に観たこの映画のご紹介を書いております)
役者さんについてですが、後半のセレブたちの顔ぶれがすんごいわけでして、船長ジョン・マルコヴィッチ、セレブ女性にカトリーヌ・ドヌーヴ、「暗殺の森」のステファニア・サンドレッリ、そしてなんと「エレンディラ」のイレーネ・パパスという、どうですかこれ。
というわけで驚異の作品「永遠の語らい」をどうしても書いておきたくて書いておきました。
これはあれです、一部のこれがビシビシ伝わる人には是非とも観ていただきたい特別な作品です。