リアリティー

Reality
マッテオ・ガローネ監督による「リアリティー」はいったい何がどうリアリティなんでしょうか。ナポリの下町がリアリティですか。魚屋の父ちゃんもリアリティです。なんせリアリティ。
リアリティー

コメディ映画と言い切ってしまうことに抵抗もあります。「リアリティー」はコメディであると同時に薄ら寒いリアリティと狂気の物語です。

マッテオ・ガローネ監督と言えば「ゴモラ」でした。あれも大概リアリティでした。コミカルなところがあったり、薄ら寒いところがあったり、恐ろしかったりしました。
とりわけ下町に巣くう貧困長屋のリアリティは格別でした。群像劇の個々のドラマもたいそう面白かったのです。
だからこの「リアリティー」も観たいのです。

その前に邦題の「リアリティー」ですが、特に「ー」のあたりがちょっと辛いですね。これも商標か何かの関係でしょうか。原題「Reality」ですから余計なことをしない見事な邦題です。「リアリティ」か「リアリティー」か、どっちがリアリティを感じますか?

同じ言葉を繰り返すとちょっと頭が狂いますので映画の内容をご紹介します。

舞台はイタリアはナポリ、広場のある貧乏長屋です。かつてはどのような優雅な世界であったろうかと、目を見はる素晴らしい建築です。ですがぼろぼろです。ここに人々が住んでいます。
イタリアは北と南では全然違う国で、日本で例えれば銀座と釜ヶ崎くらい違います。言葉も全然違います。
まずこの映画は、ナポリの貧乏長屋の面々が織りなす生活ドラマで、生活描写の節々が面白いです。たまらなく面白いです。「じゃりんこチエ」ぐらい面白いです。とくに何かがあるというわけでもない描写ですらとても面白いです。

字幕を頼りに、言葉を大阪弁や河内弁に脳内変換しながら観ると、よりリアリティを感じて楽しめるでしょう。

最初は凝りまくった長回しによる馬車のシーンからです。ナポリの有名なあの山を捉えた空からのカメラがゆっくりと動き街を俯瞰して少しずつズームします。道路が判別できるようになると、馬車がとっとことっとこ進んでいる姿を捉えます。カメラはずんずん馬車に迫り、目的地に到着してさらに寄ります。ぐおーっと、寄り切ったところでやっとカットが入り、馬車が門をくぐるシーンに繋がります。
こんな凝った映像ですが、何と、物語にはほとんど何の関係もありません!すごい。これすごい。単に結婚式を迎えた新郎新婦を運ぶシーンだと直後に判明しますが、その新郎新婦はこの映画の主人公たちとほとんど関係ありません。
冒頭の結婚式のシーンではテレビタレントやたくさんの人が一度に登場して、誰が主人公で誰が重要人物なのかもさっぱりわかりません。

それでもお構いなく結婚式は終わり、目を見張る素晴らしい建築物にそれぞれが帰って行きます。

次はロボットです。わけのわからない調理ロボットで、このロボットを取り込み詐欺か、あるいは横流しみたいなことの商品として扱っている描写です。何やってんのかよくわからない上にまだ誰が誰なのか把握していないので、雑然と下町の面々を眺めていることしか出来ません。が、それがたまらなく面白いのです。

次はショッピングセンターで、テレビ番組出演のための素人オーディションをやっています。ここに魚屋の家族が来ていまして子供たちが「パパもオーディションに出なよ」と必死で家に電話します。魚屋の旦那はロボットの詐欺めいた商売に忙しく、オーディションには興味ありません。
家族がショッピングセンターにいる間、魚屋の旦那がおばはん相手に詐欺まがいのことをやっているこのシーンが「リアリティー」で最も面白くて気に入ったシーンでした。

そんなこんなで、魚屋は結局オーディションを受けるんですが、それからが大変なことになってきます。最初は乗り気でなかったのに、だんだんとね、合格するような気がしてくるんですよ。調査員が身辺に来ている、と、やや妄想も入ってきます。

という、大筋はそんな感じの映画ですが、なんといっても見どころは魚屋の暮らしっぷり、奥さんや親戚たち、そして広場のある目を見はる建築物と市場の下町感です。
それとなくおばあちゃんが作っている食べ物とか、デブの親戚たちとか、喫茶店のにいちゃん(ゴモラで見覚えがある彼ですね)とか、魚屋の店員していたミケーレとか、そういう細々した世界を観察するのが面白いのです。
ナポリを堪能できると言えばナポリの人に「こんなんだけがナポリとちゃうで、ええかげんせえ」と怒られそうですが、それでもナポリというものをとても詳しく描いていると思ってしまいます。

もっとナポリの人を怒らせそうなことを書きます。
SFで、文明が滅びた後に原始人となった人類が過去の文明遺跡の中で暮らしているという設定があります。もう完全に原始人ですが、かつて博物館だった立派な建物に巣くっているとか、そういうやつですね。
…かつてゴージャスな建築物だった建物に巣くう下町のデブのおばはんとか、その図が何となくSFっぽくてですね、得も言われぬ図なわけですよ。すいません失礼なこと思って。でも思ったので仕方ありません <(_ _)>

もうひとつ重要なテーマがあります。テレビに憧れる貧乏人の図です。
テレビというのは「馬鹿の箱」と言われているとおり、馬鹿の人がよく見ます。馬鹿の人の多くが貧困層です。貧困故に馬鹿とも言えます。貧困は馬鹿を発生させますし、馬鹿は貧困スパイラルを育てます。テレビに漬かって現実と妄想の区別が出来なくなる人も多くいるそうですし、実際にいます。そしてこれは大きな社会問題でもあります。社会問題化しないという点が深刻な社会問題で、こういう人達がいとも簡単に操作され選挙結果として表れたりします。また、洗脳するほうもいささか馬鹿なので、人を洗脳している隙に自分も洗脳されたりします。かつて冷戦というものがまさにそうで、ソ連怖いソ連怖いと嘘ばっか吐き散らしていた政治家本人がソ連が攻めてくる妄想に取り憑かれたという笑い話もあります。現代でも、中国が攻めてくるとか日本が取られたとかと騒ぎ立て妄想の世界に逃げ込む政治家が総理大臣になったりする国もあるそうです。あ、日本って書いちゃった

魚屋が陥る狂気は、テレビ洗脳にどっぷり浸かった哀れな庶民の亡骸です。

この映画では、下町の貧乏人たちの風情や家族を愛情たっぷりに描きつつ、貧困故テレビ洗脳に陥って狂った馬鹿者としても描きます。大抵の虚構はどちらかに偏った描き方をテーマに据えて描くものですが、「リアリティー」では両方を同じ調子で描きます。極めてリアリティある生活ドラマと言えましょう。

映画的には、中盤までのたまらない面白さが後半トーンダウンします。狂気の魚屋をじっとりねっちょり描きすぎてやや不満に思いましたが、それは中盤までをとことん気に入ってたからこそなんですね。仕方ありません、そういう映画ですから。
でも何かあれです、「ゴモラ」もそうでしたけど、妙な力がある映画なんですね、この監督の持ち味かと思いますが、何がどう素晴らしいのか言語化できない不思議な雰囲気で引きずり込まれます。

注意すべきは、テレビのオーディションを受けるのは映画が結構進行したあとです。あまりこの部分ばかり強調して宣伝するのもどうかなと思いますが、まあキャッチーなテーマなのでそうなりますね。

第65回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映されグランプリを受賞しました。

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