1973年9月11日、チリではCIAの手先ピノチェト将軍が民主的大統領を殺してクーデターを成功させ虐殺と独裁の政権を樹立させましたが、日本ではずっとCIAの手先が日本を掌握し続けております。いや、そんなことはともかく、アルゼンチンはどうだったでしょう。
チリのクーデターの少し前、1973年3月11日にはアルゼンチンの大統領選挙により社会民主的な政権が樹立したものの成果を上げられずにいたようです。その後だんだんと極右勢力が拡大してきて、そして1976年のクーデターで軍事独裁政権が樹立、極右や軍人や独裁者が大好きな反体制派やゲリラを非合法的に徹底的に弾圧するという、やっぱりそういうことを行っていました。
海を越えたスペインではフランコが1975年に死んでその後は民主的な国に生まれ変わりますから、独裁の黒歴史はスペインから時間差でチリ、そしてアルゼンチンに訪れたのでしょうか。よくわかりませんが。
「瞳は静かに」はちょうどそういう時期のアルゼンチン北東部サンタ・フェでの物語です。
場所は違いますが「ぜんぶ、フィデルのせい」とか「マチュカ 〜僕らと革命〜」と近い感じです。この頃の激動は多く映画化もされています。そしてどれもちびっ子映画として大変優れた出来。本作もちょっと傾向は違いますが名作・怪作です。
さて、母親は病院で働いていて、ちびっ子アンドレスは愛情に満ちた暮らしをする少年です。父親は離婚状態で別居しており、母と兄との3人暮らしで、裕福ではありませんがさほど貧乏でもありません。
この子、女の子みたいに綺麗な男の子で、澄んだ瞳を持つ美少年です。母親とじゃれ合っているシーンなどが序盤です。
予告編の中に「アナ・トレントのようだ」という言葉を見つけましたが、たしかに、それほどの美少年ですね。
しかし悲劇が起きてしまい、その後はアンドレスの世界が一変します。アンドレス本人も一変します。
軍事政権を体現するような厳しく鬱陶しい父親、母親の元に頻繁に訪れていた男、なぞのおじさん、いろいろな人が出てきてアンドレスの不穏を掻き立てます。
純粋無垢だった少年の目に、両親のそれぞれの知らなかった一面が映し出されまわりの大人たちの世界が映し出され、嘘と密告と暴力の社会がちびっ子の心を蝕んでいきます。
独裁を暗喩するのは古今東西父親と相場が決まっています。政府を代弁し世評の衣を身にまとい無思考者で従う人の代表で権威主義にすがる亡者です。今では大丈夫おじさんという連中もいます。父親というか、おっさんというか、どうしてこんなに愚かな扱いなのでしょうか。同じおっさんとして哀しくなります。でも大概のおっさんは愚かなので仕方あるまい。
この父親がアンドレスに強要することがあります。それはスポーツです。ほらきた。こういう連中が大好きなもの、それはスポーツ。思考力を奪いナショナリズムを煽り権威主義に浸らせる馬鹿増殖装置、それがスポーツ。
厭がるアンドレスにスポーツを強要する父親との絡みは面白いエピソードです。大事な試合をわくわく楽しみにする父親の期待にアンドレスがどう答えるのか。ここは素晴らしいオチが待っています。
祖母が出てきます。こういう映画で祖母といえば大抵はいい人に決まっています。本作でもそうです。
この祖母を演じたノルマ・アレアンドロは「オフィシャル・ストーリー」という映画の主演女優で、「オフィシャル・ストーリー」は軍事政権下のアルゼンチンでの軍部にまつわる社会告発的な映画だそうです。で、このノルマ・アレアンドロは軍事政権の映画にはそれ以降一切出演しなかったのですが、「瞳は静かに」の脚本を読んで祖母役を即決したのだそうです。(TOブックス | 瞳は静かに)
というわけで、ストーリーを詳しく説明しませんが、ちびっ子美少年のアンドレスが成長・・・と言っていいのか何なのか、非常に観ていて辛いことになってきます。祖母との絡みに至っては、もう悶死レベルです。
父親との絡み、祖母との絡み、そのふたつにアンドレス的意義の違いはあまりありません。なのに印象のこの違いは何事でありましょうか。
観る者は完全に手玉に取られます。
一般的に、社会派ちびっ子映画では、子供が戦争や独裁といった狂った社会の犠牲者になるパターンが多くあります。可哀想で可哀想で、みたいな感じです。それはそれで意味がありますし名作も多いのですが「瞳は静かに」はそういうのとちょっと異なります。
ある意味、単なる犠牲者になるよりもっと酷い展開と言っていいかもしれません。
「ブラック・ブレッド」というスペイン独裁政権下の弾圧をされる側の映画がありました。あれに出てくる少年と近いというとネタバレになりますか。まあいいか。そういう感じです。きついです。
社会の歪みや狂気は構成員の歪みや狂気を産み落とします。
映画や漫画でよくあるような、狂った社会を批判する正気の人間ってのはそうそういませんし、もしいてもアホ扱いされます。
例えば今日本は帝国時代の悪夢を完全になぞっています。クーデター後の虐殺や弾圧まではないにしろ、実際に大量の人間が社会に殺されたりはしておりますして、かつての独裁国家と非常に似通った状態にあるのは知性がある人間なら誰もが知るところですが、やはり狂った世の中では狂人がまともという常識が作られます。狂人が狂人の社会を作ったとき、逆接的にその社会は正気です。「正気の社会である」と狂人が言ったとしても、逆接的には正しいわけです。
そんな中で社会を告発するような人間や、真っ当に純粋無垢なこどもたちなんてのがたくさん存在できるわけがありません。
そういう意味で、「ブラック・ブレッド」や「瞳は静かに」といった衝撃的な作品はとてもリアリティがあると感じます。
こんなふうに紹介すると絶望的な映画かと思われそうですが、絶望の中にもとてもよい部分に満ちています。
まず祖母がいいです。それから、母親です。この母親は仕事をしながら社会の絶望と対峙する強さも持っています。
母親の真の姿がミステリーの技法で徐々に明らかにされるその様は、かつて観た名作「ナイロビの蜂」を彷彿とさえさせます。
ドラマの描き方もとてもよいです。日常があり、狂気の政権があります。大袈裟でなく描かれる日常のドラマって感じで、最後まで見終えたときの驚愕と、日常の描き方のバランスがとてもよく取れてると感じました。社会を告発したり批判する為の映画でなく、あくまで家族や人のドラマであるところが重要です。
監督・脚本のダニエル・ブスタマンは66年生まれで、ちょうどこの時代、アンドレスのような年頃だったそうな。
「大人の話に口を出すな」と子供はいつの時代にも言われます。その「大人の話」がアルゼンチンの77年頃はちょっと異常な世界であったということなのかもしれません。
「瞳は静かに」の原題は「アンドレスはシェスタをしたくない」のようですね。「大人の話に口を出すな。昼寝しとけ」って言われても「あほか眠たくないわ。子供と思って舐めるなよ」と、これまたいつの時代のどんな子でも思うものであります。そしてわりと恐ろしい目で親や社会を見つめます。