噂の「アルマジロ」を観ないわけにはまいりません。
戦場のドキュメンタリー映画です。アフガニスタンに派遣されたデンマーク兵士たちに密着、兵士のヘルメットにカメラも取り付けます。
現場の日常から戦闘行為に至るまで、まるで普通の職業人のドキュメンタリー映画のようにきっちりカメラに収めます。
「アルマジロ」は戦場ドキュメンタリーのある種究極、強烈な一撃です。他にこんなのありません。これは特別な一本です。
そしてこの映画はたいへん危険です。何が危険なのでしょう。この恐るべきドキュメンタリーに潜む危機をゆっくりお話しします。
リアリティと演出
戦場のドキュメンタリーフィルムはいろいろありますが、「アルマジロ」が如何に凄いかと言いますとその密着具合です。密着しすぎです。兵士の中に撮影クルーが入るわけですが、多分これかなり本格的な機材を持ち込んでスタッフも多そうです。というのもですね、この映画、ドキュメンタリーと言われなければ、多分間違いなく作られた普通の映画と思ってしまいます。カメラからレンズから照明から音声から何から何まで、兵士のアップに綺麗な風景にカット割りに、すべてが普通の物語を撮る映画の技法が駆使されています。所謂ドキュメンタリータッチではないのですよ。
今の時代、いろんな映画がドキュメンタリータッチで作られたりします。カメラが揺れたり、画質や音声が悪かったりするあれです。これはリアリティを演出するためです。
ちょっと踏みとどまって考えると不思議です。リアリティと画質の悪さなど、本来何の関係もないはずです。これは何をやっているかというと「ドキュメンタリー映画のように仕上げる」ということをやっています。リアリティの表現=ドキュメンタリー映画風表現ということです。ドキュメンタリーと言えど創作物ですから、表面上見えている画像は多分に虚構です。ドキュメンタリー風仕上げという技法は、実はリアリティではなく虚構を真似ている技法なわけですね。
そしてそうであっても効果があるわけです。現代人は、真のリアルよりも、ドキュメンタリー風虚構のほうにリアルを感じるものなのです。
目の前で起きていることより、テレビ画面越しのニュース映像にリアルを感じる病気をすでに発症しています。
さて「アルマジロ」がやったことは真逆です。リアルの現場を虚構のように美しく撮ります。照明を当て、人をアップで撮り、でクリアな音質で録音し、レンズを替え、風景を撮り、編集します。
このリアリティが、実に嘘くさく見えてきます。「これ、普通に再現ドラマかなんかじゃないの」と思わせます。
この映画の後半では実際の戦闘行動も登場します。この時ばかりは流石にドラマ風には撮れません。兵士のヘルメットに小型カメラを取り付けた映像も登場します。そしてここに来て、はじめて皆さんお馴染みの「揺れるカメラ、時々にノイズが入るドキュメンタリーらしいドキュメント映像」が登場します。
そして哀しいことに、この「定番のドキュメンタリー映像」の出現によって、観る人は強くリアリティを感じることになります。
前半の基地内における虚構じみた綺麗な映像と、後半の戦闘行動の揺れるカメラ、この対比があるせいで、ついつい「ものすごくリアリティを感じる」という逆接的なことになるわけですが、そのことをふと冷静に思うと、背筋が凍ります。
我々が感じるリアリティと現実とは、一体全体何なのでしょうか。
観察映画の想田和弘氏による「アルマジロ」のレビューの中で、ちょっぴり残念な事柄として、余計なBGMが入っていることを挙げておられます。
ドラマチックな演出の中でも特に陳腐であるところのBGMによる盛り上げを「アルマジロ」では行っていて、ドキュメンタリー映画としては首を傾げたくなるのはわかります。
しかし、BGMを使用することは、立派なカメラやスタッフが虚構のようにきっちり撮るという、この技法の延長線上にあるとも言えるかと思います。
ドキュメンタリー映画臭を消そうという方向に向いているこの映画のリアリティは極めて謎です。
ひょっとしたら、映画臭を消してテレビ臭を出そうとしているのかもしれませんがわかりません。
さて、この技法の驚きは、虚構のように美しく撮るということともうひとつあります。現場への密着具合です。
軍に密着
これがドキュメンタリーであるならば(ドキュメンタリーですが)、撮影クルーがこれほど現場に密着できることが実に不思議なんです。
普通に考えて、軍がこのような撮影を許可するとはとうてい考えられません。
日本では先日、世界で類を見ない文明後退の前時代的悪法が可決されてしまいましたが、最高機密の軍隊内部にずかずか入ってきて撮りまくるんですよ。あり得ません。映画に優しいアメリカであったとしても、これほどの密着は許されるものではないでしょう。
この映画はデンマークの映画で、デンマーク兵士を撮っています。デンマークと言えばいろいろと国民目線の政府という印象がありまして、これはまさにデンマークであるからこそ実現した驚愕の兵隊ドキュメンタリーなのでありましょう。事情はわかりませんが、何か奇跡的な力が働いて撮影が成されたと思います。それは非常に価値のあることでした。
はたらくおじさん[兵隊編]
戦場ドキュメンタリーと聞いて思い浮かぶ映像はどんなでしょう。遠目からの撮影による戦闘シーンでしょうか、下品な笑い声が響く宿舎でしょうか。
「アルマジロ」では、職場としての戦場を捉えます。
戦争は公共事業の一種です。兵隊さんは人殺しが仕事である職業人です。戦闘もありますが普段のお仕事というものももちろんあります。見回ったり休憩したりします。
多くの部分で、ものすごく日常的な兵隊の仕事を映し出します。この日常感は「戦争」という言葉から想起する安いイメージと乖離していて、ドラマ仕立ての演出の中に日常的リアリティを感じることができます。
想像力の貧困な人間がこれを観ることの危険性がここにあります。兵士の日常を想像出来なかった人ほど「なんだ、日常はこんな感じなのか、普通の仕事と変わらんな」と思ってしまう危険性です。兵士という職業を身近に感じてしまう恐ろしさです。
その延長に戦闘があります。戦闘では昂揚します。この映画で示された、ああいうことにもなります。兵士たちと同様に、観ている人間も昂揚してしまう罠が待ち受けています。日常の退屈な業務から開放されて「よっしゃ行ったるでー」みたいな、観ている側には「よっしゃクライマックスに突入するでー」という、その共通の盛り上がり感の狂気についてどうですか。
「アルマジロ」は、兵隊として働くお兄さんたちの、日常業務から殺人への連続というものをさらけ出しまして、その日常性ゆえ想像力豊かな過敏な人間は吐き気を催すほど衝撃を受けますが、そうでない人にはむしろ親密感や安心や興奮を与えてしまうのではないだろうかと危惧します。
働く兵士の仕事に密着した本作は、殺される側の人間には密着しません。想像力というのはこのことも指します。この映画を衝撃を持って観ていても尚、殺し合いという部分でのリアリティは欠落しています。ここに思いを馳せることが出来るか出来ないかはとても大きいことに感じます。
想田和弘氏はレビューの中で、対外強硬論や改憲を求める声の主たち、いわゆる戦争大好き人間たちに対して「戦争に対するリアリティが欠如し、概念だけで戦争を論じている」と指摘します。その通りです。そしてちょっと後にこのように書いておられます。
「彼らは本作を観て戦場を疑似体験した後でも、同じように軽々しく『戦争できる日本』を目指すことができるだろうか?」
ここです。私の危惧はここにあります。
「彼ら」が本作を観て戦場を疑似体験してしまうと、貧困なる想像力ゆえに「OK」と思ってしまうのではないかと畏れます。軽々しさがアップする危険性です。
そういう力も「アルマジロ」は持っています。その密着具合、その撮影技法、これまでにないほど戦争の現場を描きます。そして得てして、描けば描くほど観る側の「描かれないものごと」に対する想像力が働きにくくなるという危険も孕んでいると思うわけです。
実際はどうだかわかりません。でも映画を観ていて、つられて昂揚する気分を一瞬でも感じたのならその危険を十分に孕んでいると思うのですがいかがなものでしょう。