オーストラリア製のハード・ホームドラマで、犯罪の物語です。事件についてはそれがメインというより、どろどろの果てに来るものという扱いで、ずっと淡々と描かれるのは家族の構成員それぞれの姿です。
じわりじわりと不穏が見え隠れし、地味目なホームドラマかと思っていたら最後のほうでよからぬ事態として収束していき、映画的にグッと締めてくれます。
主人公は30歳をちょっとすぎた娘です。元ジャンキーの不良娘、現在は更生してビデオ店で働いています。働きっぷりが気に入られて、新店舗の共同経営の話まで出てきております。頑張ったんですね。でもジャンキー心も忘れていません。土地や家族から離れられない苛立ちもあります。大きな変化も欲しいし、でも過去のいろいろも忘れられません。なかなかドラマチックな役柄です。
そういう役をケイト・ブランシェットがやっていまして、見た目の感じもこの役にピッタリです。
もう離婚している父親は元有名選手で現役ジャンキーです。ゲイでもあります。弱弱の男です。娘にあれこれ世話してもらったりしています。この弱い男をヒューゴ・ウィーヴィングが演じています。こないだ観た「オレンジと太陽」とはまた別の弱さですが、弱い男の演技がぴたり嵌まりすぎて見事です。「オレンジと太陽」ではほんとにいい演技で泣かされました。
弟がいます。いい年してぶらぶらしています。過去の交通事故で足を失っています。この弟も大概チンピラです。何やらよからぬことを計略中です。
母親は自分の人生を若干呪っています。碌でもない家族ばかりでうんざりなんですね。
この家族に、例えば父親のパートナー(サム・ニール)とか、娘の元恋人とか、そういう人達が関わってきます。
家族には家もありますし、父親なんかは元有名選手で強く金に困っているというわけでもありません。登場人物たちが貧困ってわけではありません。
しかしこの映画にはずーっと「貧困」のイメージが付きまとっています。
その理由はふたつあります。
ひとつは、家族の構成員たちが絶えず貧相だからです。もうちょっとより良い暮らしを求めていたりもうちょっと自由に薬を手に入れたりしたいわけですから、つまり現状に不満でいつも足りないわけです。だから心は貧困なのです。昔の日本でいうと「中流の下」と自覚している家庭なんかと近いですね。住む家(借家)もあり電気製品も持っていますし低賃金の仕事をしています。生活はギリギリで望みの暮らしは手に入れていない。周りのみんなが皆幸せそうに見える、と、そういったプチブルになりきれなかったプチブル情報に踊らされた被害者たち所謂消費者です。
もうひとつは直接的に描いていない街の貧困です。
街自体が貧困で、発展の道も大きな経済活動もなく、ただだらだらと存在しています。いわゆる「終わった街」です。個人主義の徹底と公的サービスの縮小でもって、自由主義経済を標榜する街はどんどん終焉を迎えつつあります。
オーストラリアのどこの土地のお話かわかりませんが、大都会でないのは確かです。街全体を包む終焉感は住民にも影響を与えます。
「この街から離れられない」という言葉も出てきます。
こうした寂れ行く街の閉塞感の中でのハード・ホームドラマで犯罪が絡む映画と言えばわりと最近観た「スノータウン」という映画も思い出します。
街の終焉感と、そこで暮らす人の病んだハード・ホームドラマ、そしてそこに絡む事件って点で、何かしら共通点があるように思います。
そういえばビデオゲームのシーンが出てきますが、そこに映っているゲームが古くさいっていう点も共通していました。「古いゲーム機が置いてある」という状況が「スノータウン」と「リトル・フィッシュ」の街の特徴を表しているような気がします。
という感じの映画でして、尺の多くが比較的地味な展開で、特にケイト・ブランシェットの「心」的演出が過剰でちょっとうざかったりしますが最後のほうでは数々の不穏感が事件へと発展していきかなりドキドキ、胸騒ぎ系のいい感じになっていきます。
最後のほうの話を書くのも何ですが、この中でのケイト・ブランシェットのセリフがとてもいいです。事件の終息をビシッと締めます。この手の事件を描いたこの手の映画で、こういうリアルな反応を脚本に入れ込んだことには感心しました。
「リトル・フィッシュ」は2005年の映画で、わりと最近日本でDVD出ました。犯罪の映画でありますがハード系ホームドラマで、30歳くらいの青春映画の側面もあります。この青春映画的側面は私はちょっと苦手ですがグッと来る人もいると思います。