南米の貧困な村で年老いた母親を送り孤独になる女性ファウスタのお話です。母親から歴史と唄を引き継ぎます。土地に根付く暴力や悲惨、母親の苦痛の歴史の記憶はそのままファウスタに宿り、ファウスタもそれを自覚しています。
葬式代を稼ぐために裕福なピアニストの家にメイドとして働く日常が話の骨子となります。ピアニストの家と、故郷の村の人々と様子がファウスタの周りに描かれます。
冒頭は唄からです。黒い画面に歌だけが流れます。童謡のような子守唄のような唄です。唄を物語として伝承するかのように、呟くように歌っています。歌詞はとんでもない暴力的なものです。「あの夜手込めにされた、お腹の娘にお構いなしに、娘の目前で手と肉棒で犯した、殺された夫の肉棒を口に詰め込んだ」壮絶です。唄を娘に伝承し終わり、老女は息を引き取ります。映像の凄さと相まって冒頭数分で脳天直撃です。何事か。この映画は何事か。
ペルーのお話のようですが、どうにも詳しくない私たちにはもっと抽象的な場所に思えてしまいます。描かれる田舎の貧困な村が、物語の幻想性を下支えするような様子なわけです。ここでも映像の力が如何に強いのかがわかります。
間近に控えた結婚式の話をしている親子のシーンを見るだけで新たな世界に連れ去られます。「これ以上長い布はないの」ペルーの人が見たら懐かしい田舎の景色ですか?どうもそう思えません。この映画の全ての場所が文芸上の必然で描かれている構築された世界のように思えてなりません。実際はわかりませんけど。
答えを先に書いとくと、全編にみなぎる壮絶映像の力は撮影のナターシャ・ブライエによるものです。誰かというと「シルビアのいる街で」のあの撮影の人です。芸術性と超絶技術でもって情緒を伴う物語る映像を作り上げる女流撮影士。最高峰の天才です。というか、めちゃんこ好きなのです、この方の映像。まあこの「悲しみのミルク」の全ての映像を心して堪能してください。
さて叔父さんの家の前で鼻血を出し倒れるファウスタが病院に連れて行かれ検査を受けます。医者が言うには膣にジャガイモを入れているのです。ですが叔父はお構いなしに持論を語ります。「子供の頃から恐怖で鼻血を出すのです。母親を亡くして悲しみで気絶したのです」
「鼻血は関係ありません」
「母乳から恐怖が伝わりました。恐乳病と呼んでいます。恐怖と一緒に魂を土に埋めています」
「つまりジャガイモのことをご存じだったと?」
「いえ、知りません。きっと勝手に入ったんでしょう」
「ジャガイモが成長し細菌が繁殖しています」
「鼻血は恐乳病のせいです」
「そんな病気はありません」
冒頭僅か10分程度の叔父のシーンです。何事ですかこの会話は。もうすでに全身鳥肌です。実はこの叔父のキャラクターも素晴らしいし本人の佇まいも味わい深すぎて最高なんです。後々もたまらないシーンの連続です。
言葉や態度や設定や情景のそれぞれすべてに文学的なベースがあります。表層でなくベースです。恐怖と孤独が支配しています。ファウスタはレイプ犯が気持ち悪がって手出しできないようにと明確な理由を持っているんですが、その心境のベースは母親から受け継いだ恐怖なわけです。だから叔父の言う恐乳病はある意味正しいのです。
ドラマの節々に山間の村が俯瞰して映し出されます。乾いた山の中腹であったり砂が舞う平地だったり結婚式会場だったりします。ここで繰り広げられている日常や非日常が幻想感に拍車をかけます。なかなか埋葬されない母親の死体が象徴的に登場します。死と埋葬という言葉は南米文学で頻出するようなイメージを持っています。さほど詳しくないので印象だけですが。
マジックリアリズムと呼ばれる南米文学におけるマジック部分というのは、そもそも単なるファンタジーというのではなく、伝承や民話に基づく土着的リアリズムです。手に持つガラスの色が変わったら恋をしている証拠、遠方で死んだ息子の血が山を越え谷を越え母親の自宅の玄関先まで届き死を知らせる、母乳から恐怖が伝承される、これらすべてリアリズムです。ファウスタの恐怖もリアルなものであり、メイドとして働き唄を一つ唄う度に真珠をひと粒もらえる約束をするとか、結婚式では布は長ければ長いほうがいいとか、死体に油を塗るとか、並列にリアルです。この並列感を並列したまま叙述した文学を馴染みない人が読んだらそれはそれはぶっ飛んで「なんだこれは何だこれは」と衝撃を受けマジックリアリズムなどと言って大騒ぎしたわけです。もちろん並列に描くことを開始した文学者の技巧の鋭さは天才的ですが、南米文学における民話、伝承をベースにした物語の技法というのは多分ご当地では広く一般的で、だからこそ南米文学というムーブメントが成立していたのだろうと、何となく思ってます。必要以上に詳しくないので何となく思ってるという程度の逃げを打っときますね。
こうしたマジックリアリズムの物語とナターシャ・ブライエによる超絶技巧のカメラワークが見事な融合を果たしまして、この「悲しみのミルク」はちょっと頭一つ飛び出た大傑作となりました。美しすぎる映像とファウスタの孤独、村全体を包む恐怖の記憶、土に埋められた悲惨、言葉の妙技、ほとんど何もかもが五感に迫り来るのでして、ストーリー的なものを取っ払っても文芸上の興奮を得られます。
さてそんな話ばかりしていては片手落ちなのでして、この映画における恐怖の源泉から目をそらすこともできません。
母親を苦しめ砂に記憶されファウスタに伝承された恐怖の源泉とは即ち強姦です。当然ながら「悲しみのミルク」の根底にあるのはこの問題です。
映画の中では「テロの時代」という言い方をしていますが、80年代ごろの話でしょうか。
ペルーの近代史もご多分に漏れず波瀾万丈で大変なことになっていますが、いろいろ(いろいろで済ますのかよ)あった末の80年代には選挙によって民政に映ったものの、不況の嵐で政権運営は困難を極めており、ゲリラや革命運動や政府軍が入り乱れての混乱状態だったようで、この時期の民兵やなんかの血に餓えた武装集団、特に極左毛派のセンデロ・ルミノソという連中が村々を制圧し非情な強姦事件などを起こしまくっていました。
軍事独裁政権だろうが毛沢東一派だろうがキューバ派革命運動一派だろうが右翼だろうが左翼だろうが主義主張思想信条に関わらず暴力装置と化した武装集団はただの野獣です。殺し合いの武装集団というのは生死の境目で躁状態の狂人ですから死の恐怖を最も死に近い強姦で誤魔化すのでしょうか。その心的過程はわかりませんが武装集団の性的暴力というのは昔から今でもずっと続いている根源的な問題です。
90年にフジモリ政権が発足したときは日本でも大きな話題となりましたが、この時大統領選挙で敗れたマリオ・バルガス・リョサがラテンアメリカ文学の代表的作家であり「悲しみのミルク」を作ったクラウディア・リョサの叔父です。バルガス・リョサは2010年にノーベル文学賞を受賞しています。80年代初頭のガルシア・マルケス以来のラテン文学受賞ですね。ペルー国籍の受賞は史上初だったそうです。
そんなわけで「悲しみのミルク」ですが、わずかに普通にドラマチックな部分を含めながら、歴史的社会的なものを踏まえつつ、伝承に基づく田舎リアリズムのマジック感にも包まれつつ、超絶映像の力による高次元アップを果たした奇跡の逸品となりました。監督のクラウディア・リョサはこんな凄いのを作ってしまいあとが大変なのではなかろうかと余計な心配をしつつそもそも映画は奇跡なのだと妙に納得するしかなくなるという、そんな映画でした。
製作のアントニオ・チャバリアスはこのあと2012年にサイコホラーみたいな「フリア よみがえり少女」をスペインで製作・監督していまして、「悲しみのミルク」が凄かったので思わず観てみたんですが、全然タイプの違う映画でした。フリアはフリアでとても面白かったです。
ずっと感想を書けずにタイトルだけ入れて放置していた「悲しみのミルク」でした。なかなか書けなかったのは気に入りすぎて上手に紹介する自信がなかったのが原因かもしれませんが、上手に紹介している記事なんかあるのかと自問したら特にないから別にいいかということで、長く放置しすぎるのも何だし今ごろ感想文としてアップしておきました。
ベルリン国際映画祭金熊賞、国際批評家連盟賞受賞。